2015.11.07更新
2015.11.23修正
――紫陽花祭り、ですか……。
――ええ。いつも任務や修行ばかり……非番の日も、少しも休んでいないあなたと、一緒に行きたいのですが。
そんな約束を交わしたのは、梅雨入り前のある日のことだった。面倒そうなふりをして、それでも喜びを隠しきれないのは、忍として、未だ半人前であることの表れのようで、ひどく滑稽だった。
季節の花を愛でるのは、ヒナタの唯一ともいえる楽しみのようだ。未だ中忍とはいえ、それなりに多忙な日々を送っているヒナタにとって、その紫陽花祭りなる催しは、外せぬ用向きとのことだった。ネジに花の美しさは分からないが、ヒナタと過ごす時間もまた、ネジにとっての楽しみとなっている。
悔しいけれど、ヒナタといると、張り詰めた心が緩やかにほどけてゆくような、そんな錯覚に陥るほどで、もはや、なくてはならない存在となっているのだ。
薄闇の中、しとしとと降り続ける雨に溜息をつく。久しぶりの休日は、もうすぐ夏が来るというのに、冷たい空気に包まれていた。朝からずっとこんな調子の空模様。現在、日入を回ったところだ。
宗家へとヒナタを迎えに行けば、縁側に吊るしたてるてる坊主を悲しげに撫でていた。その姿があまりにもいとおしかったので、思わず心が軋めいた。
「もう、こんな時間だし……この雨じゃ、紫陽花祭りは中止ですね」
頬を膨らませて、心底残念そうに呟く姿はまるで、幼い頃の彼女そのもので――。静かに見つめていたネジの顔が綻んだ。そして自らも、年下の従妹をあやしていた幼い頃のように、努めて優しく、ヒナタへと問いかけた。
「お祭りは中止でも、紫陽花は咲いているのでしょう? 別に、見に行くだけなら自由なのでは?」
「えっ……?」
ネジの提案に、喜びを隠しきれないといった様子のヒナタだったが、恥ずかしいのか、必死に平静を装おうとしている。それがまた、たまらなく可愛らしい。
「でも、父上もハナビも出払っていて、私の傘は壊れたまま、修理に出すのを忘れていて……」
「なら、オレのに一緒に入ればいい」
「い……いいのですか?」
「もちろん」
些か戸惑っていたヒナタが、ふわりと笑った。よほど楽しみにしていたのだろう。彼女のこんな笑顔は、久しぶりに見たような気がする。
――できることなら、その笑顔を、ずっと近くで見ていたいけれど……。
ネジはヒナタを促すと、立派な玄関を出て、紫陽花の咲く神社へと歩き始めた。同じ傘の下、ヒナタが濡れないように、細心の注意を払いながら。いつの間にか相当に身長差のできた横顔を見下ろせば、すぐさま見上げて、笑いかけてくれる。そんな小さな幸せが、いつまでも消えないようにと願う。
しかし互いが身を置く忍の世界は、どこまでも残酷で無情なところだ。任務で里を出る度に、これで最後なのではないかと、覚悟を以て挑んでいる。父が命を賭けても守り抜いた里の為……一族の為、己の信念の為、ネジは戦うことを止められないのだ。限りある今を噛み締めながら、薄暗い霧雨の道を、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。
「わあっ! ネジ兄さん、見て……綺麗」
不意に弾んだ声に、ヒナタが指差す方へと視線を向けると、空色に青藤色、そして撫子色――色とりどりの風船――が、神社まで続く石段に、花道を作っていた。ネジは、ヒナタに急かされるまま、鳥居をくぐった。
「この八重咲きの紫陽花は、“七段花”かしら……ほら、ネジ兄さん、見て」
「ああ、ちゃんと見てるよ」
はしゃぐヒナタを慈しむように見つめるネジは、息苦しさを誤魔化すように、ヒナタの髪を、くしゃりと撫でた。
ほのかな外灯がぽつりと照らす以外、光の無い夜の神社。
ここには今、ネジとヒナタの二人しかいない。水無月の雨は、尚もしとしとと降り続き、先刻よりも、少し勢いを増したようだ。
それから少しして、梅雨の花に目を奪われていたヒナタが、満足したのか、ネジの方へと瞳を向けた。
「せっかくなので、お参りしていきませんか?」
また同じ傘の下、歩幅を合わせて石段を上る。
咲き誇る紫陽花に囲まれていると、ぐずぐずとした天候とは対照的に、淀んだ心の中が、少しずつ、晴れてゆくように思えた。
*
しばらくして、小さな拝殿に辿り着いた。手前にある水舎で手を清めると、濡れた傘を畳み、並んで拝礼した。
神への祈りを終えると、揃って振り返り、雨模様の空を、二人で見上げた。
「誰もいないし……ここで、少し雨宿りでもしましょうか」
「そうだな。ところで、あなたは何をお願いしたんだ?」
ネジの質問に、ヒナタは少し首を傾けて、はにかみながら答えた。
「……ネジ兄さんのこと。詳細は、言えませんが。人に言ったら、叶わなくなってしまいますから」
「奇遇だな。オレも、ヒナタ様のことをお願いした」
慎ましい拝殿を背に、満開の“七段花”を見渡しながら、雨が収まるのを待つ。降り止む気配のない雨は、花たちにとっては恵みとなることだろう。
……しばしの沈黙のあと、ヒナタが、徐に口を開いた。
「あの……ネジ兄さんのお願いって何ですか?」
「こういうのは、人に話すと叶わないものなのでは?」
「だって、私のことでしょう? それなら、私にも叶えられるかもしれないから」
真っ白に澄んだ瞳を細めて、にっこりと微笑むヒナタは、さながら女神様のようで――。本当に、どんな願いも叶えてくれそうな気がした。
もう、ずいぶん前から、ネジの望むものはいつだって、ヒナタの中にしかないのだから。
「……本当に?」
「ええ、本当です。言ってみてもらえませんか?」
ネジの、目の色が変わる。それに気付かずして、ヒナタは真っ直ぐにネジを見つめて、こくりと頷いた。
……瞬間、ヒナタの視界が暗転した。
目の前に見えるのは、ネジの、薄墨色の着物。力強く抱き竦められて、身動きが取れない。
耳元で聞こえるのは、ネジの、悲痛なまでに掠れた、鼻にかかった低い声。なぜだか胸が痛んで、息もできない。
「あなたを、自由にしたい。下らない運命に縛られている、あなたを……」
いつも冷静な従兄の、ひどく心を乱した姿が胸を刺す。
ヒナタは、懸命に首を横に振った。
「それは、私も同じです。あなたを、自由にしたい。ずっと虐げられてきたネジ兄さんの願いを、すべて叶えて差し上げたい……。私にできることならば、何でもいたします」
「ならば、オレから離れてください。あなたの出生が、地位が、立場が、そしてオレという存在が、優しいあなたを、苦しめ続けている」
壊れそうなほどに抱き締めながら、離れてほしいと言う。
その行動と言動の、矛盾した心理を図りかねるヒナタは、それでも必死に、ネジを想って言葉を紡いだ。
「嫌、です。それ以外で、お願いします……。あなたが、大切なの。放っておけないの。何でもする……」
言い終わるより先に、ネジの唇が、ヒナタのそれを塞いだ。先ほどまで抱き締めていた腕で、ヒナタを柱へと押し付けた。背中を走った衝撃に、わずかに開いた唇に、性急に舌を挿し入れ、その咥内を、強引に犯した。
「……んっ」
突然のことに成すがままのヒナタだったが、しかし、耳元で聞いたネジの声が、あまりにも悲しそうだったので――。
震える腕で、ネジを抱き締めた。が、慌てたネジが、ヒナタの肩を掴んで引き剥がした。
「あなたの優しさは、一見慈悲深いように見えて、本当は無慈悲で残酷なんだ」
――ネジにとっての織姫星は、ヒナタだったのかもしれない。もっともヒナタの彦星は、決してネジではないと、分かっているけれど。
(それでもいい。傍にいられれば)
そうやって自分に言い聞かせたこともあった。でも、ネジのヒナタへの想いは日に日に募ってゆき、些細なことが引き金になって、いとも簡単に溢れ出してしまう。
――憐憫や情けならいらない。オレはヒナタ様を……。
「……すまない。真っ白なあなたを、汚してしまった」
「そんな……汚れてなんか、いない。私には、生涯をかけても償い切れない罪があるもの。あなたになら、何をされたっていい」
苦しそうに目を伏せていたネジが、哀しみを湛えた瞳でヒナタを映し、静かに口を開いた。
「これだけは覚えていてほしい。オレは、あなたの自由や幸せを、何よりも願っている。鳥籠に閉じ込められるのは、オレだけで十分だ。あなたには、自分の道を生きてほしいから」
ヒナタは、儚くも強い力をその瞳に宿して、ネジを見上げた。
「……私の道の先には、必ずあなたがいます。何があろうとも、絶対に離れない」
「強情っぱりだな。ただオレを憐れんでいるだけのくせに」
ネジの冷たい声に、ヒナタの表情が一瞬歪んだかと思えば、その大きな藍白の瞳から、一粒、また一粒と、涙が零れ落ちた。胸が痛んだが、ヒナタがネジへと向ける責任感は、彼を追い詰めるだけのものなのだ。それでも己を信じて疑わない真っ直ぐな想いは、いつまでもネジの心に、暗い影を落とす。
一度離した体を引き寄せて、再び口づけた。全てを諦めたように、その乱暴な行為をただただ受け入れるだけの無情な優しさが、さらにネジを苦しめる。
だが、一度火が付いた熱はなかなか冷めてくれなくて、何度も何度も、縋るように、ヒナタの唇を貪った。
――オレはこんなにも、あなたを愛しているのに。
ネジの、届くことのない儚い想いは、満開の“七段花”を濡らす、降りしきる雨の音に紛れて散った。