2015.08.29更新
きっかけは、ほんの些細なことだ。
――例えば。
明日は晴れがいいと、ヒナタが言ったなら。
――絶対に。
雨が降らぬようにと、ネジの心は引き摺られる。
今日だってそう。昨日ヒナタが、小さなてるてる坊主に願いを込めているのを見てしまったから……。
彼女の希望を、ささやかでも大袈裟でも、出来る限り叶えてあげたくて。いつでもどんな時でも、ヒナタの言葉一つ一つが、ネジの今を形成する。
「……すっかり、涙雲ですね」
残念そうに窓の外を見遣るヒナタに、ネジの心はひどく痛む。
――オレに、雨雲を散らすだけの力があれば。
「ふふ……そんなの、ネジ兄さんじゃなくても、誰にも出来ませんよ」
いつだってネジは、ヒナタの為だけに胸を痛めている筈なのに。それなのに彼女の方は、全くと言っていいほど気にしていない様子で。まるで自分のことのように……若しくはそれ以上に、ヒナタへと重ねた気持ちは、行き場を失って溢れ出した。
――怖い。自分が怖い。この人がいなくなったら、一体どうなってしまうのだろう?
それでもネジの心は、ヒナタの中にしか存在出来なくて……毎日、ヒナタ次第で何色にも染まってしまう。こんなにも想っていては、いつか全てが流れ出して、枯渇するのではないかと思うけれど。底のないバケツに水を注ぐように、ネジのヒナタへの想いは、幾らでも、際限なく沸き出てくるのだ。
ふと、馬鹿げたことを考えた。自分と同じように、ヒナタも心を重ねてくれるだろうか。
――明日は、風が止めばいいな。
「この嵐のような雨は、きっと台風の所為ですね……果たして、そう簡単に収まるものでしょうか。でも、ネジ兄さんの為に、てるてる坊主を増やしておきますね」
窓辺にずらりと並んだ白い傘は、皆、ヒナタに似て、優しい顔をしていた。
願いも虚しく、風は、止まなかった。それどころか昨日よりも勢いを増して、二人の住む屋敷を、ガタガタと音を立てて揺らしてくる。
――すっかり、大荒れだな。
残念そうに窓の外を見遣るネジに、ヒナタは穏やかな笑みを向けた。
「こればっかりは、仕方ないですね。あ、この台風の中、修行に出るなどとは言いませんよね? 折角だから、今日はゆっくり過ごしませんか?」
大して気に留めていない様子のヒナタに、些か落胆した。もしも逆だったら、もう少し、彼女の為に心を削っていた筈だ。そう。もっと、この人が不安になるくらい、心を侵してみたい。ネジが、ヒナタによって瞬く間に色を変えるように……ヒナタにも、もっと自分を想っていて欲しい。果たしてそれは、贅沢な願いなのだろうか?
再び、窓の外を見遣れば。ヒナタが懸命に咲かせた、庭の黄色い花が風に煽られて、今にも崩れ落ちそうになっている。嵐が去った後、ひどく心を痛めるヒナタの姿が、容易に想像出来た。彼女に、悲しい顔をさせる訳にはいかない。ネジは思わず、外へと飛び出そうとした。
「あ、ちょっと、ネジ兄さん! どちらへ行かれるのですか?」
――庭の待宵草が、心配で。いや、それよりも、あなたのことが、心配で……。
言葉を、紡げば。ヒナタは眉を下げて、少々呆れたような、それでいて困ったような顔をしていた。
「……いくら何でも、過保護ではありませんか? この程度のことで気を揉まれては、ネジ兄さんの心が、いくつあっても足りなくなってしまいます。それに、私も、何も言えなくなります」
――それは、どういう意味だ? どうしてそんなにも、落ち着いていられるんだ?
ヒナタは一層眉を下げて、些か考えを巡らせた後に、また小さく口を開いた。
「ですからあなたは、そこに居て下さるだけで、十分だということです。それ以上のことも、それ以下のことも求めません。ただ私の傍に居てくれればそれで……それで、いいんです。それに……あなたを想う気持ちには、揺るぎない自信と誇りを持っています。私はあなたを心から信頼しているので、何をしなくとも、何をしてくれなくとも大丈夫なんです」
何だ、そんなにも簡単なことだったのかと、ネジは、複雑に考え過ぎていた自分を嘲った。
ヒナタの行く先々を、あれやこれやと心配して、先回りしては不安の芽を摘んで回ろうとする自分が、ひどく滑稽に思えた。それは、優しい彼女の心をかえって縛り上げてしまうのだと、今更ながらに、気が付いたのだった。
――本当に? 本当に、傍に居るだけでいいのですか?
「もちろん。私の言葉が、信用できませんか? あなたの私への想いは、その程度のものなのですか?」
違う。決してそんな訳ではない。ネジは知らなかったのだ。ヒナタが求めているのは、無条件に包み込む甘やかな優しさではなく、互いを信じ切った、涼やかな温もりなのだということが。
ならばヒナタの為に、どんなに心を囚われていたとしても、まるで造作もない様子で、傍で寄り添うことを誓った。
虞にも似た静かに滾る感情を、胸の奥へとしまい込み、どんなに苦しくても、隣で笑ってみせると決めた。
――全ては、あなたの為に。