2015.07.17更新
ずっと念願だった。
思い出の川辺で、一面の零れ桜をネジと共に見ることが。それは、実に十余年越しの想いであった。
数年に一度だという厳しい寒さを越えて、ようやく衣替えの季節がやってきた。ネジの屋敷では、相変わらずヒナタと二人きりの柔らかい時間が刻まれ続けていた。
「それではネジ兄さん、私は宗家に春物の服を取りに行きます。昼食は用意してありますので、お好きなときに温めて食べて下さいね」
ネジを置いて屋敷を後にしたヒナタは、木の葉の里全体が桜色に染まる日のことを何度も思い浮かべては、新しく訪れる輝かしい季節の準備に胸を踊らせていた。そう。もうすぐ、待ち望んでいた春が来るのだ。
「姉様! お待ちしておりました……ネジのところへ行ってから、ちっとも顔を出して下さらないんだから」
待ちくたびれたとばかりに元気よく飛び出してきたハナビを、特別ふわりと抱き締めた。
「ごめんね。つい、生活に追われてしまって……本当に、駄目ね」
「どうせ姉様はネジのことに掛かりっきりなのでしょう? もう大人なんだから、自分のことは自分でさせればよいものを……甘すぎるんです!」
可愛い妹は、ヒナタの胸をぽかぽかと忙しなく叩きながらも、とても嬉しそうにしていた。いとおしくて、飛び切り柔らかい笑みが零れた。
「ふふ……そうね、ネジ兄さんも、夏にはもう二十歳だものね。でも、あの方は私のために命を賭して下さったのだから、私にできることは何でもして差し上げたいの……ハナビにも、いつかきっと分かる日が来るわ」
「もう! また子供扱いして……私だって、もう十三ですよ? 忍としてはすでに、一人前なのですよ!」
怒っているのか喜んでいるのか、ころころと表情の変わるハナビはまるで、飼い主にじゃれている子猫のようだった。
ヒナタの後をぴったりと付いてきたハナビと一緒に、使い慣れた白いクローゼットを開いた。すでに半分くらいの荷物はネジの屋敷にある為、その中はひどくがらんとして見えた。
「さっさと済ませてご飯にしましょう! 今日は、姉様のお好きなものをたくさん用意したのですよ。私が、作ったんですよ」
きらきらと屈託のない笑顔を見せてくれる目の前の少女に、ヒナタはこれまで、どんなに救われてきたことだろう。忍としての才に恵まれなかった為、実の父には見放されて、仲良しの従兄だったネジには疎まれて……そんな孤独だったヒナタに、彼女はいつだって元気をくれた。
「ハナビ……本当に、ありがとう。大好きよ」
「ネジの次に……ですか?」
幼い子供のように頬を膨らませるハナビは、やはり可愛らしくて仕方がなかった。思わず、ネジに似たその黒檀の髪を、慈しむように撫でた。
「そんなの、比べられない……私にとってのハナビは何もかもが特別で、すごく大切なんだもの」
むくれていたハナビが、気の強そうな目を細めてふわりと笑った。とてもあたたかくて、とても幸せだった。
幾つかの小さく畳んだ服を、ハナビが用意してくれていた風呂敷へと包む。それは、外見にはあまり構えない世界に身を置いているせいか、この年頃の女のものにしては、およそ少ない量だった。任務服の替えならば幾らでもあるのに、普段着る服となると、数えるほどしか持っていないのだ。しかしそれについて、ヒナタは全くといっていいほど気にしていなかった。
昼食の準備をしに行くという妹を見送って、一人になった部屋で最後の確認をした。
すると、全てを詰め終えて空っぽになったクローゼットの奥に、色褪せた一冊のノートを見つけた。それは淡い群青色の、ずっと昔に見覚えのあるものだった。
「あれ? これは……」
確かに見覚えはあるけれども、その内容について、記憶に靄がかかったように思い出せない。
「えっと……何だったかな……」
ページを、捲る。その目に飛び込んできたのは、遠い遠い昔、ネジへの痛ましいほどの心情を、びっしりと書き綴った日記だった。ここで読むのも、ここへ置いておくのも憚られると、セピア色に褪せたそのノートを、持って帰る荷物の中にそっと隠した。
久し振りに姉妹二人で過ごす休日は、とても楽しいものだった。昼食を共にして、縁側でお茶を飲みながらとりとめのない話に花を咲かせる。それは何物にも代えがたい、この上なく幸せで、平穏な時間だった。
そして、瞬く間に夕刻が訪れた。
「そろそろ、帰るね……これからはもっと会いに来るから、どうか元気で、体には気をつけて過ごしてね」
「姉様……私も、会いに行きます。姉様こそお元気で、風邪など引かれませんように……」
眉を下げて寂しそうな顔をしたハナビを、ヒナタはもう一度抱き締めた。姿が見えなくなるまで見送ってくれたハナビを、ヒナタは何度も振り返って手を振った。
一人になったら、先刻見つけた古い日記のことが急激に気に掛かってきた。だって屋敷に帰ればネジがいて、そこで読むわけにはいかなさそうだから。
どこかで少しだけ開いてみようかと、ヒナタは人目に付かない場所を探した。
茜色の空の下、早咲きの染井吉野が揺れる土手に差し掛かると、そこには誰もいないようだった。ようやく腰を下ろし、隠していたノートをゆっくりと開く。やけに緊張して、少しばかり手が震えてしまった。
*
○月×日
ヒザシ叔父様が私のせいで命を落としてから一ヶ月が経ちました。
相変わらずネジ兄さんはすれ違っても目も合わせてくれなくて、眉間に深い皺を寄せて俯いていました。
声を掛けることもできなくて……私にはその資格もなくて……あんなにも柔らかい笑顔で寄り添ってくれていた兄さんが、手の届かないところへ行ってしまったみたいで寂しいです。
○月×日
せめて花を手向けて祈りを捧げたい……。
今日こそはとネジ兄さんの屋敷へ行ったら、ひどく冷たい目をした兄さんに、ものすごい剣幕で追い返されてしまいました。
持っていた花は押された拍子に落としてしまって、駄目になってしまいました。
○月×日
ネジ兄さんに面と向かって嫌いだと言われて、とても、とても悲しかったです。
私だって嫌い……嫌い、嫌い、嫌い、と声に出して言ってみたけれど、こんなにも大好きなあの人を、嫌いになどなれる筈がありません。
○月×日
桜の花が満開です。
昔あなたと見た綺麗な零れ桜が、今もなお忘れられずにいます。
今年も一緒に見ることが出来なかった……もう、二度と寄り添えないのでしょうか。
ネジ兄さん……今さら許して欲しいなどとは言いません。
でもせめて、共に過ごした柔らかい日々を、どうか、忘れないでいて下さい。
私とここにいたことを、どうか忘れないで下さい。
*
ヒナタの日記は、十二年前の春の日で途絶えていた。そのページからは、桜の押し花がひらりと滑り落ちてきて、吹き荒れる嵐に混じって、どこかへ飛んで行ってしまった。気づけば幾筋もの涙が頬を伝って、ぽつぽつと降り注ぐ雫に、古ぼけた文字がどんどん滲んでいった。
「やだ……こんな顔じゃ帰れない……」
あまりの辛さゆえに蓋をしていた記憶が神速に呼び覚まされて、どうにも心の整理がつけられなかった。辺りが真っ暗になっても、まだ泣き止むことが出来なかった。
どれくらいの時間が経っただろう。少しの花明かりの下、夜風に吹かれながらぽつんと佇むヒナタの元へ、心配そうな顔をしたネジがやってきた。そしてヒナタに近づくと、その表情は直ちに驚きのものへと変化した。
「どうした? 何があった?」
柔らかい声色だった。かつて嫌いだと言い放たれたときのものとは、随分違って聞こえた。
「……あ、ネジ兄さん……違うんです、これは、思い出し涙なんです」
「また、何を思い出してそんなに……夜はまだ風が冷たいのに、こんなところに座り込んでいて寒くはないですか? やはり、相当冷えているな……ほら、オレの上着でよければ羽織って」
いつもより優しいネジの言葉に、収まりかけていた涙がまた溢れ出してしまう。
「……あの頃は、あなたのことが好きで好きで、本当に、大変でした」
「何のことですか?」
上着ごと後ろから抱き締められれば、鋭い胸の痛みが少しだけ楽になった。ヒナタの肩をがっちりと包むその腕に、冷え切ってかじかんだ手を添えた。
「あなたと離れ離れになってしまった幼い頃の話です。ごめんなさい……私はあなたから大切なものを奪ってばかりで、それどころか、この先も何も与えられないかもしれません」
「なんだ……それならば心配はいりません」
ネジの腕に力が籠もる。記憶の中のネジは小さくて華奢なヒナタとあまり変わらなかった筈なのに、今の二人の体格差は相当に開いてしまっていて、それだけでも、かなりの時間の経過を裏付けていた。
「謝るのは、オレの方です……あの頃は、大切な筈の、罪のないあなたに八つ当たりをすることでしか、父を失った悲しみを紛らわすことが出来なかったんだ。随分、子供じみていたと思う。あなたと過ごしたあのあたたかい日々は、片時も忘れたことがなかったというのに……」
「良かった……忘れないでいてくれて。ちゃんと、私の願いは届いていたのですね……それに、やっと一緒に桜が見られましたね。まだ、三分咲きほどですが……満開になったら、お弁当を持ってまたここへ来ましょうね」
「ああ、約束だ……今度こそは絶対に叶えよう」
「はい……約束、ですね」
長い長い年月を経て、今また傍にいられる幸せを噛み締める。色褪せてしまった夢の続きに、もう一度二人で明かりを灯せることに、何とも柔らかな喜びを覚えた。
生きることは忍ぶことだ。この世に生きている以上、いつまでも嬉しいことや楽しいことだけに囲まれてはいられない。そんな苦しいことも、悲しいことも、辛いことも、たくさんの過ぎてゆく日々を背負って、時には泣くことだって知って大人になるのだ。
けれどもこれだけは胸を張って言える。互いに大切だと思い合える幸せは、忍ばずして手に入れることは出来ないのだと。
そして多くの涙を流した今だからこそ改めて思う。
あなたに、出会えて良かった――。
仲睦まじく寄り添っていた従兄妹同士を引き裂いたのは、幼い二人にはあまりにも酷な出来事だった。互いに、何も悪いところはなかった。もし責められるとすれば、争って奪い合うことでしか平穏を手に入れられない、この世界を置いて他にないだろう。決して、特定の者だけを咎めることなど出来ないのだ。
随分遠回りをした。しかしまた手を繋いで歩ける日が訪れた。それで十分だ。他には何もいらない。
何も変わらない空を見上げて涙したことも、今となっては二人を繋ぐ大切な思い出となった。
これからはもう、互いのことだけを一生、ただ愛してゆきたいだけだ。
この想いがどうか消えないように、忘れないようにと祈るだけだ。
「ずっと傍にいるから……もう、泣かないで?」
「ね、ほら、笑って下さい」
クローゼットの奥にしまい込んでいた冷たい記憶は、大人になる一歩前の今、ようやく温め直すことが出来そうだ。
――ずっと、好きでした……そう、今だってこんなに。
――これからも、あなたの隣にいたいです。