2015.07.05更新
乾いた風が心地よい。
縁側に出て、瞑想に耽るにはうってつけの天気だ。今日もまた一人、いつもの場所に腰を下ろして目を閉じる。
日々を生きてゆく上で悲しみが多いのは、のちに必ずやってくるであろう喜びを、何よりも大きく感じるためなのだと、教えてくれた人が傍にいない。
ヒナタと共に暮らし始めてからというもの、ネジはかつてないほどの孤独を感じるようになっていた。幼い頃に父を亡くしてずっと独りで不自由なく生きてきたというのに、今はもうここに一人でいるわけではないというのに、この、行き場のない感情は一体何だというのだろう。
「それではネジ兄さん、行ってまいります。おそらく三日ほどで戻れると思いますので、その間きちんとご飯を食べて、病院で傷の手当もして貰ってください。どうか、お気をつけてお過ごし下さい」
そう言い残してヒナタが屋敷を出たのは、今から五日前のことだ。
ようやく意識を取り戻して退院したものの、未だ自宅療養中のネジを気遣ってか、ヒナタはしばらく日帰りの簡単な任務ばかりを選んでいた。しかし、戦後の荒れた土地には依然として沢山の仕事が残っている。慢性的な人手不足において、部隊長クラスである中忍の彼女は、泊まりがけの任務を断れなくなってきたようだ。
「いや……子供ではないのだから、オレは大丈夫です。あなたこそ、気をつけて行って来て下さい」
――必ず元気で、そして出来ることならば、少しでも早く帰って来て下さい。
その後の言葉はさすがに飲み込んだ。里の上忍として数々の任務に駆り出されてきて、誰よりも己を厳しく律してきたという自負があるというのに、ここのところの自分はどこかおかしいと思う。
ずっと戦いの最中に身を投じてきだネジは、大切なものを守るためならばと、いつだって命を賭けてきた。任務で里の外へ出る度に、父との思い出が詰まったこの家にいられるのはこれが最後かもしれないと、長きに渡って独りで住んでいた屋敷には、極力ものを置かないようにして過ごしてきた。
ところが最近はどうだろう。本人からの強い申し出を受けて世話係にしたとはいえ、いつだって対等な立場で傍にいてほしいヒナタには、特に何か注文をつけるようなことはしなかった。その為か、いつしかネジの家には、彼女の趣きが沢山散りばめられるようになっていた。たとえばクローゼットの中の匂い袋や、玄関に飾られた手作りのソラフラワー、浴室に置かれた匂い付きのキャンドルなど……言い出したら何ともきりがない。いつもヒナタが纏っていた橙の花のような香りの正体はこれだったのかと、ネジはひそかに納得したのだった。
ヒナタの匂いをそこかしこに漂わせたこの場所に、肝心のヒナタがいない。
たった五日間離れているだけだというのに、一体どうしてしまったというのか。これまでだって、いやこれまでの方がずっと、離れていたではないか。ずっと、独りで生きてきたではないか。
――さびしい。
――あいたい。
もし、今のこの感情を言葉で形容するとしたならば。
――こいしい。
そう、たとえ少しの間だって離れていたくないのだ。
でも、ヒナタは自分の全てをかけた“忍”の仕事に尽力しているのだから、こんな風に考えてはいけない。それどころか、万が一無事に帰って来られなければ? などという畏れにも似た考えまでもが頭をよぎってしまう。おかしい。やはりどうかしている。こんなの嫌だ。苦しい。
そんな気概に欠けた黒い感情に支配されそうになりながらも、終わりのない思念を巡らせていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。外気にさらされた床はひどく冷たかった。
相変わらず、花の香りがする。気だるい体を起こすと、何かがはらりと落ちて膝の上で折り重なった。
「……ヒナタ様?」
匂いの主は、ネジの隣で同じ毛布にくるまって静かに寝息を立てていた。相当に疲れていたのだろう。帰ってシャワーを浴びたままなのか、その髪はじっとりと濡れている。ヒナタのこんなしどけない姿は珍しい。
「良かった……ちゃんと、戻って来てくれて。傍に、いてくれて」
ここに独りで住んでいた頃も、幾度となく縁側で眠ってしまったことがあった。だがその時は誰かが毛布を掛けてくれることもなくて、冷え切った体を起こすのにも些か虚しさを感じたものだ。誰かと寄り添うぬくもりを知った今は、替わりに一人でいることの、本当の意味での寂しさを覚えたが、こうやって傍で愛する人の体温を感じていれば、補って余りあるほどの幸せが、温い寂寞感など瞬く間に埋めてくれる。
不意に、いとおしさがこみ上げる。絶望的な戦争を生き抜いて、二人に訪れたのは決して平穏とはいえない日々だったけれど、ネジにはヒナタがいるからこそ生きてゆけるのだと、共に過ごせることにただただ感謝しながら、丁寧に時を刻んでゆこうと、そう心に誓うのだった。
――あなたの傍にいたい。できればずっと、ずっと先の未来まで。
眠るヒナタの頬に触れる。そのあたたかさに、心底の安らぎを覚えた。無意識に指で唇をなぞれば、ひどく血が騒いで、気づけばそこへ、祈るように自分の唇を重ねていた。
鼻を掠める甘い香りに、胸が粉々になりそうなほどの息苦しさを覚えた。
――いつでも傍にいたい。できればもっと、もっと寄り添いたい。
ずいぶんと我が儘になってしまったものだ。けれども仕方がない。湧きあがる感情に蓋をすることなど、誰にもできやしないのだから。
もう一度、もう一度と、噛み締めるように、何度も口づけを落とす。そのほろ苦い味に、ひどく心が軋んだ。
尚も寝入ったままのヒナタは、まるで眠り姫のようだった。