2016.03.01更新
自分のものより、ずっと大きなシャツにアイロンを掛ける。
些細なことでも、ほんの少しでも役に立てている。
……それがひどく嬉しい。
花見月を迎えて、既に二週間が経とうとしている。一緒に住み始めて二度目の春休み、ネジは相変わらず書店でのアルバイトに傾注していて、二人で居られる時間は、明らかに少なくなっていた。
どうにも物足りない……。
毎日が寂しくて寂しくて、ヒナタはいつも心細さを感じていた。情けないけれど、時折涙を流したことさえある。ところが今日も遅くに帰って来たネジが、明日は久し振りに外へ行こうかと誘ってくれた。
今なら、拾われた捨て猫の心境が理解出来るかもしれない。
尚以て、ヒナタはネジに深く侵されているのだと自覚する。
桜の蕾が膨らみ、春がすぐ傍まで迫ってきている。
この時期にネジが好んで着る服を、ヒナタはよく覚えているのだ。きっと明日の朝になったら探し始めるに違いない。先回りして、アイロンを掛けておくことにした。
すると入浴を済ませたネジが、部屋着のズボンだけを穿き、バスタオルを被って戻ってきた。
何度見ても緊張する。ヒナタよりもずっと背の高いネジは、一見すらっとしているが、実際には体格がよく、締まりのある白くてなめらかな肌は、直視出来ないほどに艶やかなのだ。
ネジの高潔なほどに真っ直ぐな性格だけではなく、その髪も声も体も、ヒナタは全部好きだ。
しかして長い髪から垂れ落ちる滴をタオルで包んだネジが、口を開く。
「ヒナタ。オレの白いシャツを知らないか?」
――思った通りだった。
前日の夜から準備するなんて遠足前の子供みたいで可愛い。
そんなどうでもいいことさえもいとおしくて、アイロンを掛ける腕に力が入る。
「それならここにあります。ごめんなさい、私の干し方が悪かったのか、皺になってしまって」
「……いつも、すまないな。ヒナタはオレのお手伝いさんじゃないのに……」
「いいの。私よりもネジさんの方が忙しいから……。それに、好きな人のお世話が出来るのは、あなたが思っている以上に、とっても幸せなことなんですよ?」
シャツに集中していた為、視界の端に捕らえていたネジの姿が一瞬見えなくなった。不思議に思ったのでアイロンを置き、一旦電源を切った。……直後濡れた髪が頬を掠めて、シャンプーとボディソープの甘い香りと、ネジのあたたかい腕に包まれた。慣れた体温を背中越しに感じて、ヒナタはこの上ない幸福感に支配された。
ぎゅう、と力を籠められた腕から、これまでどれほど安心を貰ってきただろう。
好きで、好きでどうしようもない。ヒナタに「愛しい」という感情を教えてくれたのは、間違いなくネジだった。
ゆっくりと振り返ってキスをねだれば、ネジはすぐに応えてくれて、甘い甘い交わりに、心が蕩けそうになった。
そのまま組み敷かれ、もう何度味わったかも分からない真っ白な世界に堕ちてゆく――。
ネジ以外の熱を、これから先も知りたくない。彼が、最初で最後の相手であって欲しい。
ずっと一緒に居たい。絶対に離れない。考えるのは、そんなことばかりだった。
翌朝、ネジの腕に包まれたままで目を覚ます。朝食の準備をするべくほどいて、ベッドを抜け出した。コーヒーが好きなネジの為、喫茶店を営む親戚のコウに教えて貰った淹れ方を遵守し、ゆっくりと時間を掛けて落とす。
沸騰後少し置いたお湯を、ペーパーフィルターに入れたコーヒー豆の泡が消えないよう、さらには紙に当たらぬよう、中心だけに零してゆく。丁寧に心を込めて作ったコーヒーを、穏やかな表情で口に運ぶネジを見ているのが、毎朝、本当に幸せだった。
ところが、いつもなら起きてくる筈のネジがまだ来ない。トースターにパンをセットすると、未だ夢の中にいる彼を起こしに行くことにした。
ベージュ色のベッドリネンに包まった恋人に近づく。
シーツに長い髪を広げて静やかに寝息を立てる様は、男の人とは思えないほどに綺麗だ。
時々、横にいることが居た堪れなくなることもあるくらいで、こんなにも優艶な人に想われることが、少し恐ろしくなることさえある。
けれどもヒナタにはネジでなければ駄目だから……。
彼の隣に堂々と並べるように、せめていつでも笑顔でいようと決めた。
「ネジさん、もう朝ですよ。早く起きて? 今日は一緒にお出掛けするのでしょう?」
先程まで寝ていたベッドに腰を下ろし、髪を撫でて呟く。
小さく身じろいだネジがうっすらと目を開いた。
「ねえ、ネジさん? もう起きて下さい……」
もう一度、努めて優しく言葉を零せば――。
「……キス、……で起こして……」
いつも大人びた彼らしくない答えが返ってきた。……途端に心を攫われる。
(……ネジさん、可愛い)
普段はヒナタばかりが甘えているのだ。
たまには、彼を甘やかすのも悪くない。
ヒナタはそっと身を屈めて、血が繋がっている所為か自分とよく似た薄い唇にキスをした。
「ん……、もう一回……」
珍しく甘えんぼなネジがいとおしくて、何度も何度も唇を重ねた。
胸がいっぱいになって、息が苦しくなった。
が、次の瞬間、急に体を起こしたネジによって、形勢を逆転されてしまった。見下ろしていた筈のネジがヒナタに跨っている。まずい、このパターンは……。
「だ、駄目です……。せっかくのコーヒーが冷めてしまいます……。ま、まだ朝ですよ? 昨夜したばかりでしょう? ……それに、今からお出掛けするのに……」
「……足りない。最近ずっとすれ違っていたからヒナタが足りないんだ。コーヒーなら冷めても美味しいから大丈夫。それより今はヒナタがいい……」
「も、もう……。ああっ、そんな……っ! 朝から……んんっ……」
例によってネジに火照らされ、まだ朝だというのに再び蕩けさせられてしまった――。
シャワーを浴びて食卓につく頃にはコーヒーもトーストもすっかり冷めていたが、満足そうに口に運ぶネジを見ていたら何も言えなかった。
実際、冷たい食事を口にしていたとしても、ネジと一緒というだけであたたかい。言い知れぬ喜びに浸っていたら、先に食べ終えたネジが立ち上がった。
……そして食器を片付けながら言った。
「オレは用事があるから先に出るが、一人で駅前まで来られそうか? そうだな……四十分後くらいに」
「あ、はい……。分かりました……」
(え? 一緒に出るんじゃないの?)
白いシャツを着てあっけなく出て行ったネジにヒナタはがっかりした。
暫く呆然としていたが、何とか食事を終えた。一人になった食卓はどこか味気なかった。
しかし四十分後に待ち合わせをしてしまった。駆け足で片付けて洗い物を済ませる。
それにしてもこんな日に用事だなんて、ネジは一体何をしているのだろう? 置き去りにされているようで悲しい。自分ばかりが一方的に焦がれているのではないかという不安は、あながち
間違いではないのかもしれない。
気を取り直して身支度をする。外で待ち合わせて遊びに行くのなんて、いつ以来だろう。
クローゼットの中から春物の服を選び出す。アイスグレーの、リブニットとチュールスカートがくっついたワンピースにした。
今年、合わせて買った紺色のトレンチコートと白い靴は、大人っぽくなりたくて、背伸びしてみたものだ。
覚えたばかりの薄いメイクも全ては彼の為。軽く粉をはたき、透明のマスカラと、ベージュのアイシャドウと、ベビーピンクのチークを乗せる。……ネジの前では少しでも可愛い自分でいたかった。
ネジに貰った大切なネックレスと指輪を付けて、鏡の前で最終のチェックをする。透明のリップグロスを塗って髪を梳かした。
ヴィンテージ調の花柄のバッグに、財布とスマートフォン、ハンカチ、真新しい化粧ポーチを入れる。恐らく、これで忘れ物はないだろう。
靴を履き、ピンクの結び守と赤い合格守のついた鍵で戸締まりをした。
少々手間取ってしまった。ネジを待たせることのないよう急がなければならない。
約束の時間は過ぎているのに、待ち合わせの場所にネジはいなかった。安心すると同時に複雑な気持ちになる。従来の彼だったら、早く来ていた筈なのに。
自分も遅れて来ておいて我が儘にも程があるが、おざなりにされているみたいで悲しい。
半分泣きそうになっていると、鞄の中のスマートフォンが震えた。
「……ネジさん? あ、はい今さっき着きました……。え? 目の前にいるのですか? えっと見当たらないのですが……。え? 黒の? え、スポーツワゴンってどんな車ですか?」
導かれるままに駅前のロータリーへと進んでゆけば、停車中の黒い車の向こう側に、見慣れた長い髪がさらさらと靡いた。そして、穏やかな笑顔を湛えたネジが、助手席の方へ回り込んでドアを開けてくれた。
……驚きのあまり言葉にならないままに乗り込んだ。
フロントのドリンクホルダーには、二人でよく行っていたコーヒーショップの紙コップ。二つのうち片方からはコーヒーのほろ苦い香り、もう片方からはロイヤルミルクティーの甘い香りが立ち上っている。
混乱のままに、運転席についたネジに問う。
「あ、あの……、ネジさん、これは一体……免許なんていつの間に……」
しどろもどろのヒナタに反して余裕のネジが答えた。
「あなたと離れ離れだった頃は一人で暇だったからな。女の子にはあまり関係ないのかもしれないが、男は就職に多少影響するから、念の為。それに、今日はホワイトデーだろう? バレンタインの夜、あなたには嬉しすぎるプレゼントを貰ったから、お返しというほどでもないが……。どこでも好きなところに連れてってやる。どこへ行こうか」
……胸がいっぱいで何も言えなかった。
「驚かせてしまったか? 時間はたっぷりあるからゆっくり考えればいい。この車は明日返せばいいから。よかったらこれも飲んで。確か好きだっただろう? ミルクティー」
――おざなりにされている、なんて思っていたことを知ったら、さすがのネジも怒るだろうか?
あたたかい紙コップを手にしたら、不意に、涙が零れた。
「どうして泣くんだ。ここへ来るまでに何かあったのか?」
このまま、ネジを不安にさせておく訳にはいかない。意を決して、正直に答える。
「ごめんなさい……。わ、私……、一緒に住んでいるのに、寂しかったんです……。ネジさんはいつも忙しくて、そんなあなたを、傍で支えられて嬉しい筈なのに、家に一人でいると、どうしようもなく寂しくて……。焦がれてばかりいたの……。嫌ですよね、こんなの……」
薬指に光るシルバーリングが濡れるのは嫌だったけれど――。
右手にミルクティーを持っていたので、普段は大切にしている左手で、頬に触る。
……ネジがその手を遮って、代わりに涙を拭いてくれたので、宝物のような指輪を汚さずに済んだ。
「馬鹿だな……。その程度で嫌になる訳がないだろう? いや、むしろそれくらい想ってくれないと釣り合いが取れない。最近バイト詰めなのはその……、あれだ。今ここで言うべきことではないかもしれないが、ヒナタとの将来を考えたら、少しでも貯金しておきたいから……。大学も三年になれば就職活動が始まるからな。もう、泣かないで? ヒナタが思っている以上にオレはヒナタが好きだから」
――やっぱりこの人のことが好き。どうしようもないくらいに……。
ようやく笑みを取り戻すと、ネジも綺麗な顔で笑ってくれた。
暫くして、ずっと手を握ってくれていたネジが再び切り出す。
「で、どこに行きたい? 今日はヒナタのお気に召すまま、何でもする」
ネジと一緒ならどこへでも、と言いたいところだったが、せっかくだからと考えを巡らせる。
「……教会に行きたい、です……」
ヒナタが絞り出した答えに、ネジはすぐさま答えた。
「ああ、任せろ。隣で寝ても、話しても、……何だったら歌ってもいいから。自由にしていて」
車が、ゆっくりと走り出す。助手席から見るその横顔は、これまでずっと隣に在ったものだ。けれども今日は別人にさえ見える。また、ネジを遠くに感じて寂しくなった。
ヒナタも、早く成人を迎えたい。彼と同等になって寄り添いたい。
どんどん大人になってゆく彼に置いて行かれそうで怖かった。
港町の一般道を越え、やがて海沿いの高速へと進む。真っ直ぐに伸びる道から、海と観覧車を見下ろしていたら、かつて限界の精神状態で見た景色を思い出した。
――拝復
吹く風も夏めいて参りました。
随分ご無沙汰していますが、如何お過ごしでしょうか?
三月のあの夜、貴女からの手紙を読んで相当に思い悩みました。
正直なところ、三ヶ月経った今も、複雑な思いで日々を過ごしています。
でも、貴女を好きな気持ちは、片時も忘れたことがありません。
思っていた通りやはり忘れられそうにありません。
好きです、今でも。ただそれだけです。
敬具――
離れ離れでいた頃、ネジからの手紙を受け取り、取るものも取り敢えず、夜行バスに飛び乗ったのだった。
――流れる景色、遠ざかる港町の観覧車を見ながら「アヴェ・マリア」の優しい旋律を心に思い描いていた。
――罪人と言われても仕方のない自分に、ネジはいつだって救いの手を差し伸べてくれる。堰を切って溢れ出した想いはもう、誰にも止められそうになかった。
あれから二年、ネジを想う心は大きくなる一方だが……。
高校生の頃の、がむしゃらで向こう見ずだった自分がいたからこそ今の幸せがあるのだ。
出逢えた奇跡、想い合える尊さを、改めて心に刻み込みたい。
過去、何度も祈ったように、もう一度ネジの幸せを神に乞いたいと思った。
*
麗日の温暖な陽気の中、真っ青な海岸沿いから、銀色のビル群へと突き進んでゆく。
左手を伸ばし、カップホルダーのコーヒーを取ろうとすると、気づいたヒナタがすかさず手渡してくれた。
「ありがとう」と微笑み掛けて受け取る。ヒナタもふわりと笑った。
ヒナタに出逢って四年目の春が訪れようとしている。
一年目は地元の喫茶「サニープレイス」で、ウェイトレスと客として。
二年目は別れてしまった恋人同士、離れ離れで過ごした。
三年目は地元を離れたネジの元へ、ヒナタが来てくれた。
父を亡くしてから、他のどの季節よりも嫌いになった春。幸せそうな親子で溢れる、入学式も卒業式も苦痛だった。義務感を以て同行してくれる親族に、行き場のないもどかしさを覚えて、肩身が狭くて、一日も早く大人になりたいと、心底思っていた。ずっとどうにもならない寂しさを抱えて生きてきた。
ところがヒナタと出逢ってからというもの――。
目に見える世界が、がらりと様相を変えた。
孤独な運命を呪い、生きることの何もかもが嫌になったこともあった。自分ばかりが傷を負っているようで、この世界には神などいないのだと、何度も絶望してきた。しかし今は違う。
……父が繋いでくれた小さな命を、今度は自分の手で守り抜くのだと、心からそう念う。
どんなに醜いところを見せたとしても、何もかもを赦し、あたたかく包み込んでくれる。真っ直ぐに想っていてくれる。聖母のように清らかなヒナタに愛される喜びを知って、ネジの目に映る世界は大きく変わったのだ。
苦しくてどうしようもない。ネジに「戀しい」という感情を芽生えさせたのは、ヒナタ以外に考えられない。
コーヒーカップをホルダーへと戻して、代わりにヒナタの右手を取る。指を絡めてゆっくりと握り締めれば、肩をすくめて恐る恐るこちらを窺ってきた。
「危ないです……。運転中なのにそんな……」
「嫌なのか嫌じゃないのかどっちだ?」
「嫌な訳ないのに、分かっていて聞くなんてずるいですよ? ネジさんはそうやっていつも私を余裕の笑みでからかうんです。私はあなたの一挙手一投足に惑わされて、少しのことで天国にも地獄にも行けるということを、もう少し理解しておいて欲しいです」
幼い子のようにむくれて言うので、なぜか余計にからかいたくなった。
「……今は? 今はどっちだ?」
「……決まっているでしょう? ……すごく幸せです。……分かっているくせに。でもね、わ、私も最近足りなかったの……。寝ているときくらいしかあなたに触れられなくて……。だから、とっても嬉しいです。毎日がホワイトデーになればいいのに……」
「……可愛い。あなたは、全然変わらないな。オレばかりが汚れていく気がする」
「そっ、そんなことないです! 私だって十分汚れています……。あなたを想うと普通ではいられない。絶対に誰にも渡さないって、いつも思っているから……」
困ったような顔で見上げてくるヒナタがあまりにも可愛かったので、繋いでいた手をほどいて頭を撫でた。嬉しそうにはにかむ彼女を見ていたら、この上ない幸福感に支配された。
さて、ヒナタにリクエストされた教会へとやって来た。神社やお寺にお参りするように、気軽に祈りの時を過ごして欲しいという司祭の考えに、多くの人が集まる場所だ。
都会の中心に位置するその教会は、「大聖堂」の名に相応しい、実に立派な建物だった。およそ三十メートルほどだろうか。一見いびつに思うその堂宇は、上空から見下ろせば十字架の形をしているらしい。すぐ隣に建つ鐘塔の頂上にも小さな十字架が飾られていた。
まずは車を停める。バックする為、助手席に手を置いて振り返れば、恥ずかしそうに顔を背けるヒナタが視界に入った。
いつまでも慣れないところが最高に可愛い。ヒナタの何もかも、全部を知っているのに。
……ネジの前ではあんなにも色を放ち、ねだるような甘い声で啼くことも全部。
時々、自分のような者が一緒にいていいものか分からなくなることがある。こんなにも可憐な人に想われることが、少し恐ろしくなることだってある。
けれどもネジにはヒナタでなければ駄目で、絶対に手放すつもりなどないから……。
彼女の隣に堂々と居られるように、せめていつでも温和でいようと決めた。
縦に長い入り口から中へと進むと、一瞬にして空気が変わった。濁りのない澄んだ空気。そういえば、一昨年の夏、ヒナタの高校にある礼拝堂に入った時にも同じ感覚を味わった。
三角錐のような形をした堂内へは、吹き抜けになった高い天井から、柔らかな太陽の光が射し込んできていた。無機質なコンクリートの壁に覆われているとは思えないほどにあたたかな空間は至って静かで、居心地がよかった。壁と揃いのグレーの床に並んだウォールナットの椅子の間を抜けた先には、アンティークゴールドの十字架と、その色味に合わせたキャラメルブラウンを基調としたステンドグラスの窓が見える。
祭壇には赤い布が掛けてあり、落ち着いた礼拝堂の中に少しの光を添えていた。
「……綺麗……。私、こんなに大きな教会に来たのは初めてです。静かで、ただただ穏やかで、心が洗われます。お祈りをしなくてはいけませんね。ネジさんは覚えていますか? 私の高校の小さな教会で誓ったこと。二度と離れはしない……。どんな困難があろうとも、必ず支え合い、慈しみ合おうと……。互いに互い以外はいらないと、あの時は言いました……。今も同じように思えますか? 私は、変わっていません。むしろあなたへの想いが日ごとに膨らんで、自分でもどうしようもないんです。さすがに重くて受け止め切れませんか? 私が怖いですか?」
かつてのヒナタが、懸命に紡いでくれた言葉を思い出した。
――あなたが私を傍に置いて下さる限り、離れることは、絶対にあり得ません。お邪魔ならば、すぐに身を引くつもりですが……。私の想いをどうか分かっていて下さい。
例えばヒナタなら、もしネジが心変わりしたとしても、赦してくれると思う。それどころか、ネジの幸せを何よりも願って、ずっと味方でいてくれるのだろう。
ところが逆だったらどうだろう? ……心変わりしたヒナタを、果たしてネジは許せるのだろうか?
――そんなの無理だ。どんなに卑怯な手を使っても絶対に繋ぎ止めてやる……!
最後尾の椅子に二人で座ったまま、無言の時が流れた。神に祈りを捧げに来た筈なのに、ヒナタを想えば、忽ち真っ黒な感情が蠢き出して、止まらなくなってしまった。本当に、どうかしている。ネジだってある意味何も変わっていないのだ。
考えを巡らせていたら、ヒナタが、袖口を引っ張ってきた。そっと見遣れば――。不安そうに目を潤ませてこちらを見上げている。ようやく我に返り、返事をした。
「馬鹿だな、本当に……。なぜそう思うんだ? オレを見ていて分からないか? 重いのはオレの方だ……。オレはきっとあなたの為に身を引くことなんて出来ない。何が何でも離すまいと、醜くしがみついてしまうと思う……。オレこそ怖いのではないか? あなたがオレを想ってくれている限り、どんなことでも受け入れられる自信がある。しかし……。もしあなたの心が離れてしまったら、それでもあなたの幸せを思えるかどうか分からない……。今でも何も変わらない。オレはあなたに相当に依存しているんだ」
……さすがのヒナタも驚いたかもしれない。居た堪れなくなって視線を逸らせば、袖口に添えられていた手に、信じられないくらいの力が籠められた。手首に圧迫感を覚えるほどに、ぎゅっと握り締められ、小さな震えが伝わってきた。
それから――。泣き笑いしたヒナタが、清らかに澄んだ声で言った。
「よかった……。私も同じです……。高校生の頃、何度も祈った筈なのに……。いつしかあなたの幸せより、自分の幸せ、あなたの傍にいることばかりを願っていました。話が違うと、その内神様にも見放されるのではないかと、ずっと怖かったんです。だけど、お互いに同じなら問題ありませんね。改めて、誓って下さい。絶対に離れない、心変わりしないで傍にいるって」
……俺はどうしようもなくヒナタを愛している。
この想いに果てはあるのだろうか? 震えるヒナタの手を包み、今一度誓う。
「ああ。もう確かめるまでもないな。あなたに出逢って色々あったけれど、目に映る世界が確実に変わったんだ。想い合えることの喜びと尊さと……。それから狂おしいほどの戀情を知った。いずれもあなたに出逢わなければ知り得なかったもの、しかし今では切り離せなくなった。ヒナタの居ない未来なんてオレには考えられない。あなたを一生、愛し続ける」
はらはらと零れ落ちる、泣き虫なヒナタの涙を拭ってやる。そしてその小さな左手を取ると、ピンクゴールドのエタニティリングをポケットから取り出し、華奢な小指に嵌めてやった。
「永遠の絆」を意味するダイヤモンドと「永遠の愛の象徴」と言われるエタニティデザインに、悠久に変わらぬ、深い想いを込めて。
ヒナタはひどく驚いた様子で、薬指と小指の指輪を、右手の親指で交互になぞっていた。
「……左手の小指は、幸せを閉じ込めておく指らしい。ヒナタが今を幸せだと思うのなら、外さずに付けておいて欲しい。いつか薬指に、ちゃんとした婚約指輪を嵌めてあげるから……。それまで待っていて? 必ず夢を叶えて、立派な社会人になって、あなたと幸せな家庭を築きたいと思っているんだ。……このまま、一生連れ添ってくれますか?」
拭っても拭っても止め処なく溢れ出す涙が、ふわりと降り注ぐガラス越しの光を拾って、きらきらと煌めいている。ヒナタの流す涙は、いつだって綺麗だ。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、ヒナタの抱く感情を、全部掬い上げたい。全てを包み込んであげられる自分でいたい。
この人に「幸福」を与え続けたい――。他でもない、自分の手で幸せにしたい……!
少し落ち着いたかのように見えるヒナタが、俯いたままで言葉を紡いだ。
「……もちろんです、聞くまでもありません……。こんなにも幸せなことがあっていいのでしょうか? 今、胸がいっぱいで混乱しています……。宝物にします。あなたに貰ったものは全部、言葉も何もかも、私の宝物です……。あなた自身もそうです。何よりも大切なんです」
……違う。ヒナタこそがネジの「宝物」なのだ。これほど大切なものは、他にない。
共に並んで祈りを捧げる。いつまでも変わらず二人でいられる未来を神に乞う……。
そう、静かで、ただただ穏やかな――。心が洗われる時間。ヒナタと出逢って、不器用に歩んできた全ての軌跡に、想いを馳せる。決して色褪せない記憶。ヒナタとの日々は、これから先もずっと鮮やかに光り輝いてゆくのだろう。
大聖堂の外の塔から、晴れやかな鐘の音が響き渡った。この日に聞いた「幸福」の音を、生涯忘れることはないのだろう。
……出逢えた奇跡、幸せへの感謝の想いも、絶対忘れない。
*
深夜、先にヒナタを家まで送り届ける。今日は、ヒナタのお気に召すまま、沢山の我が儘を叶えてやった。嬉しそうにはしゃぐヒナタといたら、真っ黒だった心が、嘘のように浄化された気がした。
帰りの車の中でも、ヒナタはずっと幸せそうに、左手を眺めていた。海辺の高速道路を綾なすオレンジ色の道しるべに、ビーズセッティングの小さな石が、きらり、無数の光を散らす。
昼間、太陽の下で七色に煌めいた石は、夜の電燈の下では、静かな暖色に赫う。
ピンクゴールドの柔らかな色味も、ヒナタによく似合っていた。
「そんなに気に入ってくれたら、あげた甲斐があるな。また小さいサイズに賭けてみたんだが、ぴったりでよかった。次はラウンドカットでもハートシェイプでも好きなのを選んで。今二十歳だから、五年後くらいかな? いずれは一緒に地元へ帰ろう。父が残してくれたマンションで、ヒナタと一生を共にしたい」
「……私のふざけたプレゼントに対して、海老で鯛を釣った気分です……。来年のバレンタインはもっとちゃんとしたものを贈りますね……。だから、許して下さい。地元でも、海外でも最果てでも……。ネジさんに付いて、どこへでも行きます。どこへでも連れてって下さい」
「オレは嬉しかったけどな。来年のバレンタインはヒナタも大人だな。あの方向性で、あと一歩進んだ感じにして欲しいな」
「……あと一歩進んだ感じとは?」
「驚くなよ? 例えば、エプロンの下には何も着ていない、とか……。そうだな、他には……。いつもオレばかりがリードしているから、たまにはヒナタが主導してみる、とか……。他に何があるだろう……」
「もっ、もういいです! それ以上は言わないで……! ネジさんでもそんなこと考えたりするんですねっ」
「……いつもあんなに乱れているくせにそれはないだろう? だいだいヒナタが悪いんだ。先に煽るのはヒナタなんだから。オレだって男だ。そんないやらしい体をして、甘い声を出されて、何も思わない方がおかしい。……これからもオレの前だけにして……。一生オレだけのものに、絶対に誰にも渡したくない」
「いっ、いやらしいっ? それなら、ネジさんだって……! それに、当たり前です。始まりも終わりも全部ネジさんに捧げたいの。だから、いつまでもお傍に置いて下さいね?」
来年、大人になったヒナタもきっと可愛い。四年目の春も、相変わらず純真で、穢れというものを知らないのだから。たとえ汚れてしまったとしても、どんなヒナタでも愛し抜く自信はあるのだけれど――。
恐ろしいくらいに綺麗なヒナタを、改めていとおしいと思った。
マンションの前に停車すると、恥ずかしそうに俯いたヒナタが、今年のホワイトデー最後の我が儘を口にした。
――映画やドラマみたいに、深夜の車の中で、キスがしたいです……。
春の星座の下、二人きりの車の中。慈しむように、何度も、何度も唇を重ねた。
幾ら味わっても飽きない。これからもずっとヒナタのことしか知らなくていい。
一生、ヒナタだけでいい。他には、何も望まない。
――だから神様。どうかヒナタを繋いでいて下さい……。一生結んでいて下さい……。
例によって神に乞う。嫌というほどに孤独を知ったネジに、今度こそ穏やかな幸せをくれると信じて。しかして恋人として過ごす二度目のホワイトデーは、真っ白に輝く、幸福に満ちた日になった。
……もう一度、祈りをこめる。
華奢な左手に光る「永遠」の印が、いつまでも色褪せずに輝き続けますように。