2015.09.13更新
星のない夜。青藍の空には、朧月が浮かんでいて――。見馴れた中庭の風景を、薄花色に照らしている。長かった冬を越え、ようやく芽吹いた青葉が、昼間降った雨に濡れたまま、柔らかな光を帯びる。そんな、五月のある夜のことだった。
相変わらず、ネジの屋敷で暮らすヒナタは、季節外れの蒸し暑さに眠れず、小さな灯りの下で、縫い物をしていた。日付が変わる頃、忘れていた仕事を思い出して、台所へと足を向けると、縁側に腰掛ける、ネジの姿が目に入った。寝床から出てきたままなのだろう。肌蹴た霞色の浴衣に、下ろしたままの長い髪。いつも隙のない彼にしては、幾らか気の張らぬ格好だった。
「……眠れないのですか?」
「……ああ。少し、風に当たろうと思って」
ネジは、ヒナタを一瞥すると、また空へと視線を移した。ヒナタは、隣に正座し、彼の目に映る、白磁の月を見上げた。
「曇りの月も、風流でいいですね」
あの日と同じ、満月の夜。凄惨な戦争から、一年以上の時が流れた。非力な自分を庇い、一時は生死の淵を彷徨ったネジに尽くすヒナタは、今のこの生活に心から満足し、彼と共に生きることを、誇りにさえ思っていて――。これからも大切な彼の傍に、ずっといようと誓っていた。
静寂の中、さらさらと、湿った風が流れた。ヒナタは、何故だか吸い込まれるように、ネジの方へと視線を向けた。
――瞬間。
月明かりが照らす、見馴れた従兄の横顔は……息もできないくらいに儚くて。ヒナタは再び、彼に心を奪われてしまった。これまで、どうして平気だったのだろう。ネジは、無愛想で、いつも難しい顔をしているが、ともすれば女の人と見紛うほどに、とても、とても綺麗な人なのだ。
しばらく動けずにいると、ヒナタの視線に気付いたネジが、品よく整った顔を、少し歪めて笑った。
「何だ? どうした」
「……っ」
言葉に、ならない。急に、ネジが別の人に見えてしまって。聞き馴れていた筈の、鼻にかかった低い声さえも、心を傾いで震わせる。動揺を誤魔化すように、慌てて立ち上がると、不思議そうに見上げるネジと、視線が合った。
「あ……」
思わず、顔を背ける。捲れた着物の裾を直したくても、体が言うことを聞かない。ヒナタは今、酷い顔をしているに違いないと、恥ずかしさに目を伏せた。握り締めた両の拳は震えていた。
暫くして……いつもと違う従妹の様子をじっと眺めていたネジが、心配そうに呟いた。
「ヒナタ様?」
これまで、幾度となく呼ばれてきた名。当たり前のように隣に在ったネジの声に、何故だかどうしようもなく、鼓動が早まる。ヒナタは、味わったことのない感覚に平静さを失いながらも、必死に言葉を紡いだ。
「なっ、何でもないの! ネジ兄さんが、あまりにも綺麗で……つい、見とれてしまって」
「……綺麗? オレが?」
儚いくらいに綺麗なこの人を、壊れてしまわぬよう、やはりこれからも、傍で守ると誓った。
初夏の緑を照らす朧月よりも、ずっと綺麗で清廉な、大切な人を……。
これからも、隣で見つめていたいと、強く念ったのだった。