2017.04.03更新
※不知夜月(いざよいづき)=十六夜月
※盈月(えいげつ)=満月
縁側にて、ふと耳を澄ませてみる。
――こだまする蝉の声に混じって、ずっと独りきりだった屋敷に、鮮やかな音色が広がった。小さく廊下を駆ける音……静かに水を流す音……微かに食器の擦れる音。父の居ないこの家で、長らく孤独に過ごしてきたネジにとって、それらはひどく心地のよいものだった。
梅雨も残すところ、あと僅かとなった。枯れ梅雨のせいか雲は少なく、快晴の空から照りつける光が、さながら真夏の太陽のように突き刺さる。
夏に生まれたのに暑さが苦手なネジは、自宅で過ごす日の午後は、決まってここで夕涼みをしている。汗ばむ手に纏わりつく本の頁も、冷たい床と生ぬるい空気とのちぐはぐな体感も、室内よりは幾分ましという程度で、大して気持ちのよいものではないが、ヒナタと同じ屋根の下にいる今だけは、そんな時間も好きになれそうだった。
上忍に昇格し、任務に忙殺される日々、こうして手伝いにきてくれる従妹との、束の間の小休止。それだけが唯一、今のネジを支えている。如何せん不器用な彼女のすることはどれも大雑把で、自分でやった方がずっと早くて正確なのだが、幼い頃から身の回りの何もかもを一人でこなしてきた彼にとって、誰かに世話を焼いてもらえることは、気恥ずかしい反面嬉しくもあった。もっともその誰かというのが、ヒナタだからこそ余計に幸せなのかもしれないが。
……しばしの沈黙の後、何かを擦り潰すような、あまり聞き慣れない音がした。
いったい、次は何の音を紡ぎ出しているというのだろう? ヒナタの作り出すもの全てが微笑ましく、何よりいとおしく感じられた。
「あの、ネジ兄さん。少し早いですが、夕飯にしませんか?」
掃除を終えて台所に籠っていたヒナタが、例の如くネジを呼びにきた。縁側で書物に夢中になっていたネジは、読んでいた頁に栞を挿み、促されるまま食卓へと向かった。しかして居間にある食台には、蕎麦の入った椀から、真っ直ぐな湯気がふわふわと立ち上っていた。
「確かお好きだったでしょう……? にしんのお蕎麦」
鍋を手にしたヒナタが、その上ににしんの甘露煮を乗せてくれた。それから続けて運んできてくれた炊き込みご飯と副菜を並べれば、茶色っぽくて地味だったお膳が、一気に明るくなった。よく見てみると、そこにはネジの好物ばかりが並んでいた。
「……どうしたんですか? こんなに沢山」
「もうすぐネジ兄さんのお誕生日でしょう? お口に合うかどうかは分かりませんが……心は込めて作りました。どうぞ、あたたかいうちに召し上がってください」
思いもよらない言葉に、一瞬頬が緩みかけたものの、すぐさま固く結んだ。
「ありがとうございます……いただきます」
ゆっくりと口に運べば、向かい側に座っているヒナタが、如何にも心配そうな顔で、こちらを窺っている。あまり感情を表に出さないネジは、食事中も無表情なので、毎度不安にさせてしまうのだった。
「美味しいです」
下手くそながらも精一杯の笑みを以て云えば、ただそれだけのことで、ふにゃりと崩れる柔らかな笑顔に、心底の安心を覚えた。
食事を終えて、ヒナタが淹れてくれたお茶を飲んでいると、目の前に筆入れのような桐箱が差し出された。何も言えずにいたら、仄かに色づいたヒナタが、恥ずかしそうに口を開いた。
「あの……これ、プレゼントというほどでもないですが」
「空けても?」
こくりと頷いたのを確認し、そっと蓋を開けると……そこには、どこか懐かしい匂いのする、金平糖のような色合いの線香花火が入っていた。ざっと見て、おそらく十本ほどだろうか。鳥の子色に若葉色、青磁鼠、灰桜――僅かにくすんだ柔らかな色みが、控えめなヒナタを彷彿とさせた。
「手作りしてみたの」
「……線香花火を? ああ、それであんな音が。しかし、手作りとはすごいな……」
「せっかくだから今から庭でやりませんか?」
「……懐かしいな。また勝負でもしますか?」
唐突な誘いを承けて宵の庭へとかう。縁台にはすでに燈火が揺れていて、晴れ渡る夏の夜空を見上げれば、きらり耀く天の川と共に、少し欠けた不知夜月が躍っていた。そういえば昨夜の月は正円の盈月だった……意識せずに過ごしていては、知らずに流れてしまう風景だ。思い返してみれば、巡りゆく季節を大切にするヒナタには、幼い頃から、沢山の綺麗なものを教えてもらった。
空を仰いだまま動かないネジに、柔和な笑みを湛えたヒナタが、線香花火を差し出した。瞬く星々に目を奪われていた彼は、静かにそれを受け取った。
「どちらが長く咲かせられるか勝負ですね……」
「ふふ、そういえば兄さんは昔から負けず嫌いでしたね」
「分かっていますね? 負けた方が望みを叶えるんです」
「そうでしたね。今こそ、ちゃんと叶えてもらわないといけませんね」
ゆらゆらと揺れる灯へと先端を挿し入れると、小さな火の玉が、次第に大きくなっていった。すると徐に、赤橙色の花が咲き始めた――ぱちぱちぱち、心地よい音を立てて弾ける菊の花は、儚くも本当に綺麗だった。
線香花火を手にしゃがみ込む二人の顔が、爆ぜるたび、少しずつ成長する火花に照らされて、朱に染め上げられてゆく……。目が合って、思わず笑みを零せば、ヒナタも穏やかに笑ってくれた。そして、ぱちぱちと、黄に色を変えた火の玉が静かに落ちて、束の間に咲いた菊の花の生涯が、終わりを告げた。
「……今のは私の勝ちですね」
「どうしますか?」
「ネジ兄さんが誕生日にしてほしいことを叶えます。それが私の望みです」
願ってもいない申し入れに本音を言うべきか少し迷ったが、清らかでいて屈託のない笑顔に、さすがに気が咎めて、
「これからも生きて、そばで笑っていてくだされば、それで十分です」
半分本当、半分嘘の返答をした。しかし、ヒナタはそれでは納得しなかったようで、まるで幼い子のように頬を膨らませた。どんな言葉が飛び出すのかと、果然微笑ましく見守っていたのだが、
「だめです。ちゃんと答えてください。それに、生きてそばで笑っていてほしいのは私も同じです。そんなの当然すぎて、叶えるまでもありません。ずっと一緒だよって、昔に約束したでしょう?」
その、瞬時に心を撃ち抜く言承けに、どうしようもなくなって――。
月明かりと星明かりが綾なす夏の夜、橙色の灯に、揃いの瞳と白い肌が照らされて、ぼんやりと浮かび上がる。また目が合って、真っ直ぐに訴えかけてくる痛切な視線に囚われて……そのまま、吸い込まれるように、互いによく似た形の唇に、唇を重ねていた。
何が起こったのか分からないといった様子のヒナタが、意地になってもう一度言う。
「ちゃ……ちゃんと聞かせてください。ネジ兄さんの望みは? 私に、叶えられることはありませんか?」
「それなら、さっきもうしてしまった」
重ねられた問いに、ネジは殊の外ばつが悪そうに答えたのだが、ヒナタはたじろぎながらもまだ向かってきた。
「ではもう一度勝負です」
「…………」
再び、線香花火に火を燈す。命が宿ったかのようなその橙色の蕾に、今度こそはと願いを込めて――ぱちぱちぱち。迷いながらも一歩ずつ進んでいくような火花が、満開の菊の花へと変容してゆく。朱に染まった顔でヒナタの方へと視線を遣れば、消え入りそうなほどに柔らかな、儚い笑みを向けてくれた。
息苦しさのあまり目を伏せれば、視界の端に、青紫色の髪がさらりと揺れた。同時に甘やかな痺れが走る。向き直ろうとするも、慌てて目を逸らす彼女と入れ違いになった。
それから……ぱち……ぱち……小さく弾けて、花火の一生がまた幕を閉じた。
「ヒナタ様、今のは?」
「……ネジ兄さんの勝ちです」
「いや、そうではなくて……唇に……触れたものは……」
「ごめんなさい……嬉しくて……つい。あ、勝ったのだから、何か願いを……」
どうにも捨て置けない事実を問い質すと、彼女は震える声で弁明したのだが、その姿があまりにも隙だらけだったので、消えた線香花火を持ったままの小さな手を、存外大きな手で包み込んだ。それは痛みを覚えるほどに力強く、昼間の太陽よりも熱かったに違いない。あ、とか細い声が耳を撫でたのも束の間、即座に動きを封じて、そして――
「オレにはその程度じゃ足りない……もっと欲しい……」
灯の光を拾い、静かに煌めく薄紫色の目を捻じ伏せて……祈るようにそっと……慈しむように優しく、もう一度唇を塞いだ。一度離した手から零れ落ちた花火など、意に介さず、きつく指を絡めた。
空一面の光に包まれて、啄むような口づけは、互いの熱を確かめるかのよう、次第に深く深く絡み合ってゆく。ゆらゆらと、穏やかに揺れる燈火に照らされて、瞬く間に紅潮した頬に風を受ければ、二人の長い髪が、さらさらと折り重なった。
――ネジ兄さんお誕生日おめでとう……私のそばに生まれてきてくれて……共に生きてくれてありがとう。
想いを囁くような、拙くも懸命に応えてくれたヒナタとの、初めての内緒事。生涯彼女だけに貫く忠誠を、ネジは改めて誓ったのだった。