2016.11.03更新!
――まだ、帰りたくない。
はじめて二人で出掛けた夏の夜、どうしても離れたくなくて、ヒナタが思わず口にしたこと。
――また、一緒に来ればいいでしょう?
悲しそうなヒナタを見かねてか、ネジは、確かにそう言った。
今となっては、夢だったのかとさえ思う。遊園地から帰ってきてからのネジはずっと、何事もなかったかのような態度を貫いていたから……。
一緒に空を見上げたことも、指を絡めて手をつないだことも――もう、忘れてしまったのだろうか。さみしい。せっかく勇気を出して連れ出したのに、このままでは、よそよそしい従兄妹同士の関係に戻ってしまう。
……大胆にも手紙を書いた。直接伝えるよりは幾らか気が楽だったが、それでもネジからの返事を待っているあいだは、生きた心地がしなかった。
――ネジ兄さんへ
来週の金曜、忍ランドで秋のイベントがあるそうです。
チケットを手に入れたので、また一緒に行きませんか? 必ず観覧車に乗る約束をしたこと、忘れていたら思い出してください。私は一度も忘れたことはありません。
もし来てくださるのなら次は絶対に観覧車に乗りたいです。
お返事、お待ちしています。
ヒナタ――
数日後、郵便受けに入っていたのは、
――拝復
ヒナタ様
お手紙拝読致しました。来週末の件、承知致しました。
また朝お迎えに上がります。
宜しくお願い致します。
敬具――
何とも他人行儀な、堅苦しくかしこまった返事だった。ヒナタはがっかりしたが、約束を取り付けてしまえばこちらのもの。真面目なネジらしく鋭く角ばった文字を何度も指でなぞっては、あふれだす感情をこらえきれずに、ゆるやかに微笑んだ。
何を着ていくべきか相当に悩んだが、当日は様々な仮装をした人々による「はろうぃん」なるパーティーがあるらしく、地味な格好だとかえって浮いてしまうのではないかというハナビからの忠告を承け、ヒナタにとっては博打ともいえる白いワンピースを用意した。
開きすぎたように見える襟ぐりが恥ずかしくてチェックのマフラーを巻く。短すぎる着丈を長めのニーハイソックスで誤魔化す。スカートの裾と靴下との隙間が見えないよう限界まで引っ張りあげた。
……朝、宗家までヒナタを迎えにきたネジは、一瞬目を見開くと、どこか気まずそうに全身を見遣ったあと、すぐさま逸らしてしまった。
些か不安だったが、今さら着替えるわけにもいかない。泣き出しそうな空を見なかったことにして家を出た。
*
あの夏の日にどさくさに紛れて手をつないだこと、ヒナタはいったい、どう思っているのだろうか。懲りずにまた誘ってくれたということは、少しくらいは期待してもいいのだろうか?
……いや、いくらなんでもそれは早計すぎる。
直視できないほどにかわいい私服のヒナタを視界の端に捕らえながら、ネジは少々頭を抱えていた。歩くたび、ワンピースの裾と靴下の隙間から見え隠れするふわふわの脚に引きずられる意識を、どうにか律して前を向く。
涙雲に不安を覚えながらも、せっかくの日に雨が降っては嫌だと、あえて傘を持たずに来た。
頼むから夜まで持ってくれ――心の中で懇願した。
夏ぶりに訪れた忍ランドは、紫と橙の「はろうぃん」の色味に染められていた。華やかな仮装をした人々で賑わう中、白と黒とチェックという落ち着いた出で立ちのヒナタが、ネジには一番眩しく見えた。
しかして入り口すぐの土産物屋で足を止めたヒナタに続いて、ネジも立ち止まる。
「あ! あれが欲しい……!」
「え? どれですか?」
まだ着いたばかりだというのに、いかにも荷物になりそうな、大きなくまのぬいぐるみを指さすヒナタは、幼い頃に見たのと同じ笑顔をしていた。
「まったく……いくつになったんですか」
「ふふ、かわいいものはいつまでもかわいいんです。あ、兄さん、あれを見てください。うさぎさんとくまさんの耳がありますよ。一緒につけませんか?」
ヒナタの発想はいつだって突飛で分からない。見るからに堅苦しい風貌のネジが、もこもこの耳をつけて何が楽しいというのだろう。しかし、
「いや……オレがこれをつけていたら可笑しいでしょう。ヒナタ様が一人でつけてください……あっ、ちょっと、だめです……!」
抵抗も虚しく、満面の笑みを湛えたヒナタに、うさぎの耳をつけられてしまった。ぐっと背伸びをしたせいで、至近距離に迫る小さな唇から、思い切り目を逸らす。
もう、いろんなことに疑問符がいっぱいになった。
「かわいい! うさ耳ネジ兄さんとってもかわいいです。私はくまにするので、お揃いにしましょう」
「嫌です……だいたいヒナタ様の方がうさぎっぽいのに、なぜオレがうさぎなのですか?」
「だって、ネジ兄さんの方がきれいだから……」
「きれい? オレが?」
「……は、はい……それに、白のうさ耳なんて恥ずかしくてつけられないもの……」
「それはオレのセリフです。これもついでに差し上げるので一人でつけてください」
納得のいかない様子のヒナタからくま耳を奪い取ると、自分のうさ耳をつけてあげた。それはやはり彼女に似合っていて、あまりじっくり見ることが憚られた。
そのままくまのぬいぐるみを押し付けると、ヒナタは、
「残念ですが仕方ありませんね。でも、嬉しい……。この子をネジ兄さんだと思って大切にします」
控えめに笑うくまをいとおしそうに抱きしめて言った。
なぜだか胸が締め付けられて、息が、苦しかった。
*
早くに来たおかげで、午前中にはほとんどの乗り物を網羅した。ネジはなぜかジェットコースターだけは頑なに拒んだが、それ以外のものには快く付き合ってくれた。
柄にもなくはしゃいだせいで少し疲れたので、大きなハンバーガーショップで休憩することにした。ヒナタに席に着くよう促したネジが、買ってきてくれるのを待つ。隣にくまを座らせて、頭を撫でると微笑んだ。
少しして、トレーを手にしたネジがヒナタを探してやって来た。広い店内をきょろきょろと見回し、目が合った瞬間、安心したように笑うネジが心底いとおしかった。
「聞いてくださいヒナタ様……。今『はろうぃん』のイベント中なので、かぼちゃの入ったメニューしかないんですよ」
いつも実直なネジが、珍しく食べ物に不満を零すのが可哀想に思えて、ヒナタは自分でも思わぬことを口にした。
「ああ、そういえば兄さんはかぼちゃがお嫌いでしたね。私が代わりに食べましょうか?」
「でも……すでに中に入っていますよ」
「取って食べさせてください」
「……え?」
「早く……冷めてしまいます」
「…………」
一瞬、困惑したかのように見えるネジが、些か慌てた手つきで、薄くスライスされたかぼちゃを口に運んできた。指先と唇が触れてしまわぬよう、互いに気を配った。
自分で言い出したもののどうにも気まずくて、甘いかぼちゃを頬張りながら、頬に手を添えて俯く――嚥下して顔を上げると、この上なく穏やかに笑うネジと視線が合った。
大きなハンバーガーにかぶり付く姿さえ、きれいだと思う。……いつからネジをこんな風に思うようになったのだろう。
一方のヒナタは、口の回りを汚さぬように注意を払えば払うほど、なぜか上手くいかなくて、呆れたネジに笑われてしまうのだった。
「ヒナタ様、食べるの下手くそすぎますよ」
「だ、だって、私には大きすぎて……」
「ほら、もっと口を開けて」
「や、やだ……見ないでください。余計に失敗しそうです」
食べにくそうにするヒナタを気遣ってか、ネジはそれとなしに席を立ってくれた。食べ終わる頃に戻ってきた彼の手には、かぼちゃのアイスが添えられていた。
思わず目を輝かせたヒナタを余裕の笑みで見下ろすネジは、ずいぶん大人びて見えた。
*
オレンジ色のアイスを頬張るヒナタを最後まで見守ったら、店を出て再び園内を巡る。観覧車は最後に乗りたいという共通認識があったのか、互いに、まだ口に出すことはなかった。
「はろうぃん」の仮装に身を包む、物語の世界の王子と姫に扮した恋人同士に、意識が向いているのが隣にいて分かる。いったい、ヒナタは彼らのことをどんな気持ちで眺めているのだろう。
「いいな……私もあんなドレスを着てみたいな」
零れたのは、ネジには言語道断ともいえる主張だった。……思わず言い及ぶ。
「そんなの絶対にだめです……あんなに肌を出して、誰もいない場所ならまだしも、みんな困ってしまいます」
ヒナタはひどく悲しい顔をして、
「そうですね……。私なんかがきれいなドレスを着ても、目の毒になってしまいますね」
まるで要領を得ない返答をした。慌てて弁明する。
「目の毒……まあ、ある意味ではそうなのかもしれませんが、あなたが思っている意味とは全然違います」
「……?」
不安そうに見上げてくるヒナタをなだめようと言葉を探す。
「……だからその……何と言えばいいのか……」
あなたのきれいな姿を他の男の目に入れたくない――とはもちろん言えるはずもなく、口ごもるネジを訝しげに眺めるヒナタと、無言の押し問答になってしまった。視線を交わしたままで、しばし時が止まる。
すると――。
「雨です! ヒナタ様……走ってください」
ぽつり、ぽつりと視界を掠める雨が、瞬く間に大粒のかけらとなって辺りに降り注ぐ。ネジは咄嗟にヒナタの手を取ると、近くの木陰まで急いで引っ張っていった。そして、なぜだか急激に恥ずかしくなって、つないだ手をほどいてしまった。
……恐る恐るヒナタの方を見遣ると、大切そうに抱っこしたくまのぬいぐるみのあいだから、白いワンピースの内側――ぴたりと貼り付いた生地の向こう側に、くっきりと形どられた繊細なラインが透けて見えて、瞬時に鼓動が跳ね上がった。
見てはいけない、と思えば思うほどに意識が引きずられて、どうしようもなくなったネジは、着ていたパーカを脱ぎ、ヒナタの肩に掛けてあげた。……驚いた彼女を意に介さず、背中を向けて静かに言う。
「……風邪を、引いてしまいます」
「あの……ありがとうございます……でも、これだと兄さんが寒そうです」
「いえ……オレはいいんです。傘を買ってくるので少しここで待っていてください」
グッズショップでタオルと傘を買い求め、すぐにヒナタの元へと走った。長い髪からは雨水が滴り、中に着ていたTシャツが貼り付いて鬱陶しいほどだったが、それよりヒナタが寒い思いをするのはもっと嫌だった。
走り寄るネジの姿に気づいたヒナタが心配そうに笑いかけてくれて、心底の安心感を覚えた。
袋からタオルを出すと、紺藍の髪についた水滴を拭ってやった。次いで湿ったタオルで自分を包む。軽く濡れたせいか、シャンプーの甘い匂いがして、胸がぎゅっと締め付けられた。
降り籠める雨は止まる気配を見せず、秋の空気を容赦なく冷やし続ける。肩に掛けたタオルに手を添えたヒナタが、ひどく困った表情でネジに言った。
「やっぱり寒そうで、私ばっかり悪いです」
「オレは大丈夫です」
できるかぎりの笑顔で答えると、ヒナタは首を傾けて、一瞬考え込んだ。
そして――。
「……あ、分かった……こうすればいいんです」
ネジの腕に手を絡めて、ぴったりとくっついて笑った。
「これなら寒くないでしょう?」
「でも……」
「嫌、ですか?」
「いえ……」
「よかった」
やさしく微笑むヒナタを見ていたら、それ以上は何も言えなかった。
*
「ヒナタ様……せっかく傘があるので屋内に移動しませんか?」
灰色の空を無言で仰いでいたら、穏やかな声が降ってきた。……ここにはネジとヒナタの他に誰もいない。ネジが寒い思いをしていないか気にかかったが、それより二人きりでいたいという願いが多分に勝っていて、然許り返答に窮してしまった。
「ヒナタ様?」
覗き込んでくるネジに、時間稼ぎともいえる話を振る。
「あの……実は、忍ランドのうさぎさんとくまさんはね、恋人同士の設定なの。だから兄さんと一緒に、耳をお揃いにしてつけたかったの……」
「どういう、意味ですか?」
「うさぎさんが女の子だから、私がうさぎの耳をつけて、くまのぬいぐるみを抱いたら、それでこの子を兄さんと思って可愛がったら……。えっと、だから、要するにね……」
「……要するに?」
ここまで言ったものの、言葉に詰まってしまった。訳の分からないヒナタの物言いに、丁寧に耳を傾けてくれるネジに、申し訳なくなる。
「屋内に移動するのなら、今こそ観覧車に乗りませんか? 観覧車だったら濡れる心配もありませんよ」
ころころ変わるヒナタの言動に拍子抜けした様子のネジが、すぐさま立て直して笑う。
大きな傘を開いて手招きすると、そっと隣に入れてくれた。
観覧車から見下ろす景色は、あいにくの雨で真っ白に染まっていた。しかして霧の中を揺蕩うように昇る小さなゴンドラで、ネジと向かい合って座る。……やはり寒そうに見えるネジが気の毒に思えてきて、ヒナタはチェックのマフラーを外すと、隣に移動して一緒に包まった。
「あの……ヒナタ様……」
「兄さんが寒そうだから……あたためてはいけませんか?」
「いえ……でも、こんなところでこんなに体を寄せていたら」
「……?」
「何でもありません……すごくあたたかいです」
「それならよかったです」
心なしか、先ほどよりもネジが震えているような気がする。観覧車はまだ半分にも差し掛かっていないというのに、もう終わりの心配をしてしまうあたり、ヒナタは彼に相当に侵されているのだと自覚する――。
それからは一言も言葉を交わすことなく、しかし袖の長いパーカ越しに手をつないで、真っ白な弧を描く観覧車は、あっという間に一周してしまった。
互いに手が震えていたのは、寒さのせいなのだろうか。少なくとも、ヒナタの胸は痛いほどに締め付けられて、息が苦しいくらいに脈打っていた。
……こうして約束を果たしてしまったら、次はあるのだろうか。景色は少しも見えなかったけれども、二人きりで過ごしたあたたかな時間が終われば、途端に言いようのないさみしさに包まれてしまう。ゴンドラを降りたあとは、同じ傘の下、すっかり逞しくなった腕に遠慮がちに手を添えて体温を分け合った。口数の減ったネジからは、どこか緊張の色が見て取れた。
*
尋常でない雨模様のせいか、通常よりも早く、薄闇に包まれてゆく。何とも形容しがたい濁った青い空は、際限なく降りしきる雨を、余計に冷たく見せていた。……雨の中、花火が上がる。まるい雨粒が流れ星のように、きらり、視界をさらってゆく――。いつの間にか園内は紫と橙のイルミネーションに輝き、「はろうぃん」の夕刻を華やかに綾なしていた。
「もう、こんな時間? 嘘みたい……やだ……帰りたくない」
今にも泣きだしそうな声でヒナタが言う。ネジはそんな彼女をあやすように笑顔を浮かべた。
今日もまた離れ離れになることを惜しんでくれるヒナタが、いとおしくていとおしくて仕方なかった。忽ちあふれだす感情を抑えることなく、心の内をさらけ出す。
「また、それですか?」
「いけませんか?」
「いえ……ただ……あまりそういうことを口にしない方がいいですよ」
「だって事実だから仕方ないでしょう? 兄さんは帰りたいのですか?」
「……帰りたくないです。というよりあなたを帰したくない。でも……」
「でも?」
「何でもありません。花火が終わったら帰りますよ」
「! ……はい」
二人きりの傘の中、やさしく肩を抱けば、ヒナタは顔を真っ赤にして俯いてしまった。その姿があまりにもかわいくて――。
自分でも驚いたが、気づけばネジは、ヒナタの熱い頬に唇を寄せていた。傘に隠れられるのをいいことに、ずいぶん飛躍してしまったと後悔して顔を離す。すると……、
「……口に、してほしいです……」
花火の轟音に混じって、にわかには信じがたい言葉が耳を震わせた。
***
しばらくの沈黙のあと……頬に冷たい指が触れて、しかし、唇は驚くほどに熱を持ち、息苦しくて心が震えた――。
紫と橙の、きらきらのイルミネーション。雨の音、さらさらと流れる湿った風に、色違いの長い髪が折り重なった。
……そろりと目を開ければ、柔らかに笑うネジと目が合った。そのまま抱き寄せられ、傘の中でぎゅっと包まれる。霧の雨――蒼く儚い世界。冷たい雨風が、熱い頬に心地よかった。
うさぎとくまを借りた懸命の告白をネジが受け取ってくれたこと。長い片想いを経て、恋人同士になれたこと……尚も降り止まぬ雨の下、この上ない幸せを噛みしめる。
沁みるほどの秋風に吹かれていても、大切なネジの腕に包まれていたら、麗らかな春の陽光に照らされているかのようにあたたかかった。
***
“兄さんは帰りたいのですか?”
“帰りたくないです。というよりあなたを帰したくない。でも……”
“でも?”
――このままあなたといたら自分でもどうなるか分からない。だから……。
――これ以上オレを煽らないでほしいです。