2016.08.28更新
「姉様! 姉様! 商店街の福引でね、忍ランドのペアチケットが当たりましたよ……! 大好きな姉様に差し上げます。よかったら、好きな人を誘って行ってきてください」
「えっ、いいの?」
「もちろん! 毎日ネジと修行ばかりで少しも休まれていないのですから、たまには楽しんできてください」
お転婆を絵に描いたような妹が、帰宅後、ものすごい勢いでやって来た。尋常でない足音を立てて部屋へ駆けてくるので、穏和なヒナタもさすがにたじろいだ。が、
……理由を聞いてみれば何てことはない。十歳の女の子のかわいらしい気遣いに、心がほっこりとあたたまった。
「ありがとうハナビ」
笑顔で受け取れば、彼女はこの上なくうれしそうに笑った。
忍としてのハナビ、一人の女の子としてのハナビ――いずれもヒナタは大好きだ。特にこんな無邪気なときの彼女は最高にかわいい。そっと頭を撫でれば、小型犬のように人懐こく微笑んでくれる。
「で、姉様、誰を誘うのですか?」
ハナビが悪戯に聞くので、一番はじめに浮かんだ人物の名前を口にする。
「ネジ兄さんかなぁ」
「え? ネジ? そんなんでいいのですか? 修行中もいつも一緒なのに、遊びに行くときまで一緒でいいのですか?」
「うん……いつもお世話になっているから」
「それだけですか?」
「うん、それだけ」
……妹に、嘘をついた。
立派な忍とはいえ、今以て幼い彼女が気づいたかは分からない。しかし、この行き場のない、名のない感情を、妹にだって悟られるわけにはいかない。
ネジ兄さんと仲良くなりたい、だなんて、口が裂けても誰にも言えない……! でも一緒に行きたい。たとえ修行という名目がなかったとしても、傍にいてほしい――。
これまでの人生において、ここまで勇気を出したことがあっただろうか? それくらいの決意を以て、ネジを遊園地に誘った。
鍛錬を終えた午前中、さらさらと流れる青い風が心地よかった。
「あっあの! こっ、今度のお休み、よろしければ、一緒に遊園地に行きませんか? ハ、ハナ……、ハナビが! チケットを! くれたから……!」
「えっ、オレですか? あ……ああ、別に構いませんよ」
盛夏の朝、こめかみを伝う汗すら拭えずに見上げた表情は、どこか困惑しているかのようにも見えた。やはり迷惑だったかと心配になったが、もう言ってしまった……。控えめながらも同意してくれた。
あとは流れに身を任せるしかない。
*
約束当日。
その日は突き抜けるような青空に、黄色い太陽が燦々ときらめいていた。
緊張のあまり寝付けなかったので、不覚にも寝坊してしまった。
何を着ていこうか相当に悩んだが、この期に及んで背伸びをしても仕方ない。任務服とは違うフード付きの上着と、ゆるいパンツを穿いて出掛けることにした。……色気も何もない。自分でもそう思ったが、無闇に着飾って変に思われたらもっと嫌だ。せめて髪だけでもと、腰まで伸びた長い髪を、いつもより念入りに櫛で梳かした。
……鏡の中の自分はなぜだかずいぶん自信がなさそうに見える。
今にも泣き出しそうな顔を両手で軽く打つと、横に振った。前髪が跳ねて乱れたのを再び櫛で整えた。
「姉様! ネジが来てますよ!」
例によって大きな足音を響かせてやって来たハナビに、現実へ訪われる。
もう行かなければならない。自分で誘っておいてまったくおかしな話ではあるが、少々気が重くなる。
不安そうな顔と向き合って、無理やりに口角を上げていびつな笑みを貼り付けた。
少し待たせてしまった。準備は出来ていたはずなのに、顔を合わせる勇気がなかった自分が情けなかった。
しかしてネジは普段とは違う軽装でそこに立っていた。いつもの大人びた様子とは正反対の、十六歳の男の子らしい姿を目にし、瞬く間に心が綻んだ。しかし、ようやく笑ってくれるようになっていた柔和な表情は硬く、可とも否とも取れるちぐはぐな笑みを浮かべていた。従者として仕方なく来てくれたのかと思うと悲しくなった。
「お待たせしてごめんなさい……」
「それほど待っていないので気にしないでください」
やはり儚げに笑うネジに着いて、若干の距離を空けて二人で歩いた。
*
鋭く刺すような陽射しに、色素の薄い目を細めた。
少し後ろを歩くヒナタをそっと振り返る――瞬間、慌てて目を逸らす彼女が、何を思って急に自分を誘ったのか、まるで見当もつかない。
木ノ葉の里に程近い、火の国の小さな森。そこに、新しい商業施設が出来た。
その「忍ランド」なる遊園地は、忍仲間のあいだでも話題になっていて、ネジも幾度となく誘われていた。そう、班員たちに言われてもまったく興味を持てずに断り続けてきた。
正直、今でも遊園地に行きたいわけではない。朝の鍛練の時間だけでは足りない。ずっとそう思っていたところ、唐突に願ってもない申し出があったというだけなのだ。
「ヒナタ様。今日は暑いのでちゃんと水分補給をしてくださいね。塩分も忘れてはいけません」
不毛な沈黙を破ろうと絞り出した言葉は、自分でも笑ってしまうくらい堅苦しいものだった。
「はい……ありがとうございます……あと、今日は来てくださってありがとうございます」
ところが、ヒナタはいつものやさしい笑みを向けてくれた。やはり、何を考えているのか分からない。ただの気まぐれか、それとも他に誘う相手がいなかったのか。
……悲観思考へと引きずられる頭をどうにかして立て直す。
「あっ! ネジ兄さん、見てください! 大きな観覧車が見えますよ」
幼い子さながらに見上げてくるヒナタが、無条件にいとおしくて笑みがこぼれる。それを子供扱いされたのだと勘違いし、むくれながら俯くヒナタの髪に、今すぐにでも触れたかった。
*
開園直後の遊園地は実に多くの人で賑わっていた。赤と緑、水色と黄色。色とりどりの遊具が綾なす視界の向こう側には、どこまでも鮮明な空が広がっている。おとぎ話のようなかわいい街並みに、忽ち心が踊り出す。
焼け焦げそうなほどの太陽光は強くなる一方だったが、木や建物の陰に、さりげなく庇ってくれるネジに、どうしようもない痛みがあふれ出した――。
分家としての役割を全うしているがゆえ、なのだと思うと、やけに息苦しい。
「あの……日焼けしてしまいます。もっとこちらへ。一緒に、日陰に入りませんか?」
「いえ、オレはいいんです。あなたを真っ赤にして帰すわけにはいかない」
遠慮がちに微笑んで、例の如く距離を開けたままのネジに、言いようのない寂しさを覚えた。
けれども、そのあいだも陽気な音楽が鳴り止むことはなく、二人のぎこちない空気を和ませてくれていた。
パステルカラーの風船をたくさん持った着ぐるみ、ふわふわと舞う、虹色のシャボン玉。そのすべてが鮮やかで、沈みかけた心を嘘のように掬い上げてくれた。
ネジは尚もふわりと笑っている。
「ヒナタ様。何に乗りたいですか?」
そう、それはまるで幼い頃のように。いつだって穏やかに寄り添ってくれていた柔らかな日々を思い出す。……今ならどんな我が儘も聞いてくれそうな気がする。すっかり気分の上がったヒナタは、満面の笑みで答えた。
「ジェットコースターに乗りたいです……ほら、あの赤くて長い」
指差す先にあるのは、無情なまでに曲がりくねった赤いジェットコースター。コースは、全部で何メートルくらいあるのだろう? とにかく険しくて長い。一瞥したネジは一度も見たことのない顔をしていた。
「さっそくですか……」
だが、そのどことなく曇った表情に、ヒナタは気づかぬ振りをした。それより今はあの乗り物に乗りたい! という子供のような欲求の方が多分に勝っている。引きつった顔のネジを連れ、ホットドッグやソフトクリームの出店が並ぶ通りを越えたら、坂道を昇る。先ほどまでは数歩下がっていたヒナタが、翻ってネジを従えるような形になった。
「ほら、ネジ兄さん、早く」
周囲の明るい空気に染められて、大胆にも気が大きくなったヒナタは、無意識のうちにネジの袖を引いていた。……ネジは一瞬目を瞬いたものの、何も言わずに着いてきてくれた。
乗り場までやってきたので袖から手を離した。ふとネジを見上げれば、すぐさま目を逸らされてしまった。そして、
「ずいぶん並んでいますね……それでも乗りますか?」仏頂面で目を合わせぬままに聞くので、
「もちろん! もしかして、怖いのですか?」少々からかってみる。すると、
「そんなわけないでしょう。オレには怖いものなど何もありません」むきになって答えるので、何だかかわいくて可笑しくなった。にっこりと笑い掛けると、ネジも不器用に微笑んでくれた。
しかして、ジェットコースターの列はなかなか進まず、炎天下の中じっと立っているのが辛くなってきた。幾重にも折れた人の列は、次第に圧迫感を増していっているような気がする。経験のない人混みにだんだん不安になってきて、またしても無自覚にネジの袖に縋る。が、訝しげに見下ろしてきて、何か言いたげにしているので、
「あっ……! ごめんなさい。嫌ですよね……」手を離そうとした。
直後――
「いや……自由にしていてくれて構わない。しかし暑くないですか?」
汗ばんだ手に大きな手を添えて、やんわりと制止したネジが、どこか困ったような表情で問うてきた。その本心は知り得ないが、自由にしていていいと言う彼に、素直に甘えることにした。
「いえ……それより……」
「それより?」
「何でもありません……ありがとうございます。いまだけですので……。辛抱していてくださればうれしいです」
「…………」
今日、ネジが何を思って来てくれたのかはやはり分からない。立場上、ヒナタを無下にはできず、仕方なく付き従ってくれたのかもしれない。……それでもいい、傍にいられれば。そのくらい、ヒナタのネジへの心は行き場を失っていた。
どれほどの時間並んでいたのだろう。ようやく順番が回ってきた。係の人に人数を聞かれて、「二人」と、誇らしげに答える自分が、ひどく滑稽だった。龍を形どったような真っ赤なジェットコースターに、無言のネジと並んで乗る。
「楽しみですね!」と声を掛けても何も言わないので、彼は強がって付き合ってくれたのかと、申し訳なく思うと同時に、意外な一面を見て面白くなった。
さて、待ち望んだ瞬間がやってきた。わくわくする。急な斜面を、じわり、じわりと上がってゆく感覚に、心がひどく高揚するのを自覚する。視界の一面には真っ青な空。大きな太陽から、幾筋もの光が下りているのを、神々しいとさえ思った。三十メートルほど昇っただろうか? 頂上まで達したところで車体が停止する。……それから、おもむろに空を切ったかと思えば、眼下には火の国の広大な森が広がって、強い圧力を受けながら瞬く間に急降下していった――。絶えず耳をかすめるのは、声にならない自分の叫び声、そして風を切る轟音。体があちこちへ傾き、肩へと固定された安全バーを掴んでいるのがやっとだった。
「怖い! こんなに怖いとは思わなかった! もうやだー! きゃああぁぁぁぁ!!」
「…………」
怖い怖い、と叫びながらも楽しんでいる自分、ずっとずっと、無言のネジのあいだには、どうあっても埋まらぬ温度差があるような気がした。
*
ジェットコースターを降りてからも、ネジは言葉を発することができなかった。そんなネジを気にしてか、どことなく挙動不審なヒナタを見、彼女は誰かにそそのかされて無理やりに自分を誘ったのかと不安になる。そんな情けない心の内を悟られぬよう、ネジは出来得る限りの笑顔を貼り付けた。……と、そこへ、人々が花道を作りはじめ、通路の真ん中がすっぽりと空けられていった。
咄嗟にヒナタの腕を引くと、周囲に倣って端に捌けた。
「これは何でしょう……?」
「パレードがはじまるんだわ。せっかくだから見ていきませんか?」
「ああ、もちろん構わないが……この人混みで、はぐれないように気をつけてくださいね」
「はい。ちゃんと傍にいます。兄さんも私を見失わないようにしてください」
「オレがヒナタ様を見失うわけがないでしょう」
「それもそうですね……」
儚げなヒナタの横顔を、幾度となく盗み見る。胸の前で小さな手を結んで、直後にはじまるであろうパレードを心待ちにする様子は、切り取って飾っておきたいくらいにきれいだった。もしも、こんなふうに自分を求めてくれたなら――ありもしない空想がもたげる頭を、どうにかして戒めた。
それから、しばしの待ち時間を経て、長い長い行進が朗らかな音楽を奏でながらやって来た。金色や銀色、日の光にきらめく楽器を手にしたどこかの兵隊のような恰好の人々、首から太鼓を下げた着ぐるみたち、目も綾な衣装を纏い、軽やかに舞う踊り子。中でも最も目立つ繊細な歌声の主は、紳士さながらに蝶ネクタイを締め、至極楽しそうに歌っていて、歌になど興味のないネジでも、心が洗われるようだった。
「わあ……かわいい! 見てください、大きなくまさんが太鼓を叩いていますよ。上手ですね」
「……子供じゃありませんよ。しかし、そんなに喜んでくださるのなら、着いてきてよかったです」
「やだ、私ったら、ごめんなさい。兄さんといたら、つい童心に返ってしまって」
「いや、別に謝ることはない……ほら、あれを見てください。うさぎさんもいますよ」
「……確かに失礼ですね。こんなにも大きな相手に向かって」
「あなたらしくて面白いです」
「もう……」
下らぬ会話に乗じていたら、ところどころにある大きな筒から、桜吹雪のようなピンク色の紙片が大量に放たれた。視界いっぱいにひらひらと舞う花びら、突き抜けるほどに晴れ渡る青い空との色調が、とても幻想的だった。
……花嵐に包まれて、両手を口の前で合わせて目を輝かせるヒナタが、ネジの目には何よりも鮮明に浮かび上がった。
パレードが通りすぎたあと、前髪に、一片だけついた桜色を取ってあげた。びくんと反応して途端に俯いたヒナタからすぐに手を離すと、ひどく悲しそうな顔をして見上げてきた。
胸が、壊れそうなほどに締め付けられて、行き場を失くしてしまった――。
*
朝の鍛錬のときもそう。ヒナタといると、時間が、あっという間に過ぎてゆく。不本意ながらもジェットコースターに乗り、音楽隊のパレードを見た。簡単な昼食をとり、円形に舞う空中ブランコ、ゆっくりと庭園を下るボート、園内を巡る汽車に乗った。いずれも人であふれていて、乗るまでに時間を要したため、真上に見た太陽は西へと傾き、いつしか陰りを見せていた。そろそろ閉園の時刻が迫ってきている。買ってやったソフトクリームを頬張りながら、どこか寂しげな表情を見せるヒナタに、努めてやさしく言う。
「ヒナタ様……ここは日が沈む頃には閉るようです。他に乗りたいものはありますか?」
「最後に鏡の迷路に入りたいです」
……ヒナタの希望はことさら意外なものであった。
「え? そんなのでいいのですか?」
思わず聞き返せば、
「は、はい……ご迷惑でなければ」
如何にも自信なさげに云うので、庇うように、
「そんなわけないでしょう」と穏やかに答えた。
遠慮がちに着いてくるヒナタを振り返りつつ、彼女の行きたい場所へと向かう。鏡の迷路とはまた子供じみた、と思わないこともないが、仮にも忍である自分がジェットコースターなどに恐怖を覚えてしまった負い目がある。人のことは言えないな、と自嘲した。
当該の建物は、思いのほか不気味で真っ暗だった。中ではぐれてしまわぬよう、と手を取ろうと思ったものの直前でやめた。が、せめてちゃんと言っておこうと振り返ったら、すでにヒナタは近くにいなかった。
「ヒナタ様?」呼び掛けても、返事はない。……ネジにとっては何てことないが、昔から怖がりのヒナタがどこかでうずくまっていないか? と些か心配になった。
「ヒナタ様!」もう一度呼ぶ。例によって返事はなかった。
薄闇の中、しばらく考える。
(白眼!)仕方なく、この場所では不相応な能力を使った。
ヒナタはすぐに見つかった。少し先の奥まった道で、案の定、泣きながらうずくまっていた。
“私を見失わないようにしてください”
“オレがヒナタ様を見失うわけがないでしょう”
数時間前の会話を思い出すとばつが悪い。
「ヒナタ様、何も泣くことはないでしょう」
そっと近づき、視線を合わせるべくしゃがみ込めば、ヒナタは懸命に、
「だっ、だって……。わ、私、今日はすごく楽しみにしていたのに、昨夜は眠れなくて……そしたら寝坊しちゃって、準備にも手間取って、朝から失敗ばかりで兄さんを困らせて……せっかくのお休みに、本当にごめんなさい」
息を詰まらせながら言った。……どうしようもなく胸がつかえて、その清らかな、濁りのない涙を拭ってやる。
「……馬鹿だな。あなたが泣いている方がオレは困るのに」
「宗家の私がですか……?」
「違います。オレも今日は楽しみにしていたんだ……互いに忍であることを忘れて、ただあなたと一緒にいられることを。……まあ、さっきは白眼を使ってしまったが」
「……ごめんなさい」
ひどく悄然としたヒナタのため、ネジは最大限の笑顔にて応じた。
「いいから。謝らないでください。では、本当の最後に観覧車に乗りませんか? もう時間がない。ここはズルしても早く出ましょう」
ルール違反ではあるがそうも言っていられない。白眼で出口を突き止めると、ヒナタの手を引いて観覧車のりばへと走った。任務さながら、息を切らしながら駆ける二人を、道行く人たちは珍しそうに見ていた。
見上げた空は朱く、今にも沈みゆきそうな太陽に、「あと少しだけ」と願いを込める。
丘の上の、虹色の観覧車が迫ってきた。小さく見えていた正円が、少しずつ、少しずつ迫力を増してゆく。空の半分が群青に染まって、夕陽の紅との対比が、息を飲むほどにきれいだった。
「ヒナタ様! もうすぐです。急ぎましょう」
必死に着いてきてくれるヒナタと片手で繋がっていることが、何より幸福だった。……観覧車の目の前まで来ると、惜しむようにその手を離した。
あいにく、観覧車の最終受付に間に合わなかった。その結果を承けて、再び俯いたヒナタが言う。
「ごめんなさい……私が迷路で迷子になってしまったから……」
ヒナタには笑っていてほしくて、ネジはどうにかして言葉を探す。
「ですから、謝らないでください。また一緒に来ればいいでしょう?」
……しばしの沈黙の後、ヒナタはゆっくりと顔を上げた。
「えっ、ま……また、一緒に……?」
「はい。嫌、ですか?」
「いえ……、そんなわけないです」
「では、そろそろ帰りましょうか。次に来たときは必ず観覧車に乗りましょう」
ヒナタは尚もまっすぐに見上げてくる。青嵐に靡く紺藍の髪は、茜が射して暖色に色づいていた。
その切ないとも哀しいともとれる表情を見ていたらどうしようもなくなって、半ば導かれるようにしてもう一度手を取った。小さな手に指を絡めて、極力振り返らないようにして先を歩く。閉園時間を迎え、すっかり暗くなった遊園地、きらきらのネオンに照らされて無言で歩く――。成すがままのヒナタは拒みはしなかったけれども、次第に、果てのない沈黙が居た堪れなくなってきた。
「…………ない」
静寂を破ったのはヒナタだった。聞き取れなかったので返答に窮していたら、
「まだ、帰りたくない」
我がままに眉を下げて言うので、無理やりに理性を働かせて、
「でも、もう帰らないと……あなたを遅くまで連れ回すわけにはいかない」
思ってもいないことを口にした。
「じゃ、じゃあ……あと五分だけ、いいえ、あと十分……やっぱり十五分だけ、寄り道しませんか? 離れたくないの、お願い……」
「……仕方ないな」
強引に自宅へと連れ帰りたい衝動をどうにか抑えて、帰り道の公園のベンチに腰掛ける。
夏の星座を仰いでみても、隣のヒナタが気になって、まったくそれどころではなかった。
五分だけ、十分だけ……十五分だけ、と言い聞かせるも、手を繋いだまま離れたくない。
だが、このままいたら自分がどうなるか分からない。心を律して、そっと指をほどいて立ち上がった。
「……もう十五分経ちましたか?」
硬いベンチに座ったまま、不服そうな顔で見上げてくるヒナタの頭を撫でる。
するとヒナタは、至極うれしそうに泣き笑いをした。……再び手を取り立たせてあげる。それから意を決して言った。
「別に、遊園地でなくとも、また一緒にどこかへ行きたいです」
ヒナタは、ネジの手を緩やかに握り返し、この上ない幸福に満ちた笑顔を向けてくれた。
「うれしい……兄さんも私と同じ気持ちだったなんて」
「では、次はどこに行きたいか考えておいてください」
「ネジ兄さんと一緒だったらどこへでも行きたいです」
いちいち心を傾いでくるヒナタの言葉の数々に、掻き乱されても、どこまでも受けて立つことを誓う。
そしていつか、誰にも寛容な彼女を自分だけのものとして占有できたら……。
濃藍の空の下、掌から伝わる体温を、消えないようにと深く刻み込んだ。
*
“しかし暑くないですか?”
“いえ……それより……”
“それより?”
――どんな状況だって構わない。ネジ兄さんの傍にいられてうれしいです。